むし暑い日が続いていますが、
一面青々として緑の絨毯の様な田んぼを渡る風に、
清涼感と生命力を感じます。
15日は盂蘭盆会をむかえ、ご先祖さまや
大切だった方を偲ばせて頂きましょう。
今月は会長先生より『和らぎをもたらす言葉』とご法話を頂きました。
〇正直に、誠実に
釈尊の基本的な教えである「八正道」の一つに、
「正語」があります。
真理にかなう言葉を語るということですが、
私たちはふだん、そのように「正しく語る」ことを、
ほとんど意識していないのではないでしょうか。
ですから「正語」といわれても、すぐに生活実践と
結びつく人は多くないかもしれません。
それでも、日ごろ人と接する際、私たちはその場が
和むような会話を自然にしているはずです。
なぜなら、そのほうが楽しいからであり、
そして、安らぐからです。
その場が和らぐ言葉は、まさに「正語」といえるのです。
その意味では、だれもが知らずしらず
「正語」を実践しているともいえそうです。
「正語」を実践するうえで大事なのは、
何をどう話すかということよりも、
正直に生きる誠実さを忘れないことなのかもしれません。
(佼成7月号より引用)
私は滋賀家庭教育研究所「わたぼうしの会」の所長として、
多くの方に教会だけではなく外部でも家庭教育をお伝えしています。
子育ての不安をなくし、楽しく子育てをしながら、
笑顔あふれる幸せな家庭を築いて下さることを願って
所員一同活動しております。
子育てで大切なのは、親の愛情を伝えることです。
子どもは親の愛情をたくさん感じると、心身共に
順調に成長していくと言われています。
特に言葉によって伝えるのはとても重要です。
ご法話を拝読させて頂いて、私たちは日常の会話や
あいさつの中で、安らぎや元気を与える言葉を
自然に使っているんだと気づきました。
いつも「目の前の人に喜んでもらえる自分になろう」
と教えて頂いているからですね。
家族がいてくれるので「正語」を実践させて
頂けるのですから、家族に感謝だと思います。
私はかなり前から「おはよう」だけでなく
「ございます」をつけています。
もちろん子どもにもです。
教会で教えてもらったからですが、
今では家族も言うようになりうれしく思っています。
〇かなしみを抱いて
日本語で、漢字の「愛」は「かなし」といいます。
愛する、慈しむということは、悲しむということであります。
母親がわが子を愛おしむ心、といえばわかりやすいかもしれません。
「正語」、すなわち「正しく語る」ということのなかには、
そうした慈しみ、悲しむ心と、相手の幸せを念ずる情が
籠められているのではないでしょうか。
そういえば、良寛さんが放蕩三昧の甥を改心させたのは、
説諭の言葉でも叱責でもなく、甥を思って流したひと筋の涙でした。
慈愛に満ちた沈黙によって伝わる「正語」もあるということです。
私たちの幸せをだれよりも念じてくださる両親や
ご先祖の愛心を、まもなく開花を迎える清らかな蓮華を愛でながら、
この盂蘭盆会の時期にあらためてかみしめてみるのも
いいのではないでしょうか。
(佼成7月号より引用)
私の満90歳になる母親に、電話をかけると「元気にしてるか」
「商売はどうや」「カゼひかんときや」といくつになっても
私の身を案じてくれます。
その思いが、ひしひしと伝わって「ありがたいな、うれしいな」
と感じ幸せなことだと思わずにはいられません。
親の言葉には慈しみ悲しむ心と幸せを念ずる心が
籠められているのですね。
「うっとしい」とか「うるさい」と反抗的な受け取り方を
した時もありましたが、今は素直に「ありがたい」と思える自分に
なれました。
母のように私も子どもに「思い」が伝わればいいなと
思うことがあるのです。
それは娘のことです。
娘は1年以上も就職せず、家にいます。
初めは就活をしていましたが、今はしていないようです。
働きたくないのか、働くところが見つからないのかわかりません。
家での様子が朝から晩まで気になり、心配で心配で
問い詰めてはっきりどう思っているのか知りたい。
そして「早く働きなさい」と言いたいのに言えません。
娘の思いを察すると、何も言えないのです。
何かこの子の助けになる事をしてあげたいのにできず、
とてももどかしく思っています。
今はただ見守っていますが、ご法話を拝読させて頂き、
親として娘に対する「正語」は何か、
私の心に我心はないのかと、
自分を見つめるチャンスととらえ、
答えを出していこうと思いました。
それまでは、明るく温かい「あいさつ」や
「ふれあい」をしていこうと思います。
私は絶対に子どもを見離さない、愛おしむ心を
持っている親なんだという自覚だけは
忘れないようにしていきたいです。
合掌
家庭教育研究所所長 「わたぼうしの会」
(会長先生ご法話 佼成7月号より引用)