夏のお見舞い申しあげます。みなさま、お変わりございませんか?
いよいよ梅雨が明け、初夏の訪れを?旬?のものに触れ感じます。
年中味合える改良がされた今日であっても、胡瓜に茄子、アスパラガス、トマト、サクランボ、スイカ、アナゴやハモ、浴衣などに出合うと、私の五感、五根ともいいますが、(目、耳、舌、鼻、皮膚)が?あ〜暑い夏がそこまできているなぁ?と日頃以上に元気が出てきます。
さて、今月も私たちが、よりよく生きるための?生活のあり方?を会長先生のご法話から学ばせていただきます。
「人を育てる」
〜自分を磨く〜
いつの世においても、人間社会の課題の一つとして教育や人材育成のむずかしさが挙げられます。
では、人を育てる立場の人は「何のために」そして「だれのために」人を育てるのでしょう。
見た目には相手のため、そして組織や集団のためなのでしょうが、私は一義的に、自分を磨くためのよい機会が人を育てることであり、教育とは相手の縁にふれて自分も共に育つことだと思います。そのように受けとめると、相手に対して過剰な期待をしたり、性急に成果を求めたりすることがなくなります。
むしろ、うまくいかないときほど
「このご縁は、私になにを教えてくれているのだろう」と自省をうながしてくれます。
つまり、教えるより先に自分を磨くこと、それが人を育てる最短の道だというのです。
会長先生は、人に教えるより先ず?自分磨き?とご指導くださいました。
庭野日敬説法集の中にも⇒「己を磨くとは心を浄めること」と教えていただいております。以前、二十歳も過ぎた息子に、いつまでも茶の間で寝ていることを注意すると?お母さん、僕に言うより自分がしてるで?とピシャリと言われた事がありました。言ってもらって気づく私です。「相手は自分を映す鏡です。」ともいわれるが如く、茶の間で夕飯の片付けを終え、お風呂に入る前の長時間ゴロンと寝るだらしない姿を改めた次第です。息子も同じく少し改めてくれる事となり真に会長先生の「相手の縁にふれて自分も共に育つ」というよい機会(チャンス)をいただいたことを思い出しました。
〜人に教えることはできない〜
子育てでも組織の人材育成においても、どういう人を育てることを目的とするのかといえば、私は「慈悲心のある人」の一語に尽きると思います。
人と調和できる人、いつでも思いやりをわすれない人といえるでしょう。
では、そういう人をいかにして育てるのかを先の話と重ねあわせて考えてみると、「相手と縁を結ぶ自分がそのような人になる」それが一番の近道ということになります。
道歌に「よき人を見ればわが身も磨かれて鏡に向かう心地こそすれ」あるとおりです。
ほめたり、激励したりしながら、その人のもてる力が最大限に発揮されるような縁になることが「人を育てる」ということになります。
人を育てる立場の人は、そうした意味でも「自分はまだ至らない、足りない」との謙虚さが大切です。
そこで私は、たとえば外出するとき「行ってきます」ではなく「行ってまいります」と申します。
「行って」「参る」− すべてを尊い出会いにして、学んで帰ってくる。その繰り返しが自分を磨く習慣となり、自他の胸に慈悲の心を育むことになると思うからです。
自分の行動を振り返り謙虚さの足りない私だったと思い至りました。前文の私の五感(五根)でもって相手を直してあげなければいけない。いわば変える事を強いていた様に思います。
会長先生は仏性礼拝行のお手本を毎日の生活の中から「行って参ります」と教えて下さいました。私も今日から「行って参ります」の?1つの行?を通して謙虚さをもって慈悲心のある自分磨きの修行をして参ります。鏡に何が映るのか1か月愉しむテーマがいただけました。
ありがとうございます。
合掌
近江八幡支部支部長
(会長先生ご法話 佼成7月号より引用)