明けましておめでとうございます。
「元旦や 晴れて雀の 物語」
という句があります。むかしからの日本の美しい風習として、元日の朝は大きな声を出さず、あらあらしい物音も立てず、静かな、和らいだ、しかも澄み徹った心で年を迎えることになっています。
(開祖法語録 1月号より)
輝かしい二十六年を迎えました。
皆さんの元日も、静かに和らぎ、澄み徹った心でお迎えされたと思います。
今年は、大聖堂建立五十一年目、滋賀教会発足五十一年目の門出の年、大変大きな前進の年の始まりです。
会長先生は、五十周年を祝い喜ぶことも大事ですが、座りこまず、御本尊さまのように立って前進する年として五十一年目の門出を表現されました。
私たちも、ご宝前を中心とする生活の中で、感謝の心に目覚め、安らぎと未来への明るい希望を抱いてまいりましょう。
佼成一月号の会長先生ご法話は、
心の眼を開く
幼児のように
「新しき年の始めにかくしこそ 千歳をかねて楽しきを積め」(新年にあたり、きょうからまた千年の繁栄を思って楽しいこと積み重ねよう)
古い和歌にこうあるように、お互いさま、年の始めにあたり、清新な気持ちで、法悦の日々を重ねてまいりたいと思います。
清新な気持ちとはどんな気持ちでしょう。
会長先生は、ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」の物語から『世界をそのままに、求めるところなく、単純に幼児のように観察すると、世界は美しかった』
求めるところなくとは、こうあったらいいのにとか、ではなく「単純に幼児のように」という視点がじつは日々を清新に楽しくすごすコツといえそうです。
幼児はよく「これなあに?」と親に尋ねます。
あのように純粋な気持ちで素直にものごとをみると、それまで気づかなかったことにも目がとまり、それが驚きや感動を誘います。
この「気づく」というのは、ものごとのありのままに心の眼が開くことといえます。
気づくというのは、さまざまなことをとおして私たちに問いかけてくださる神仏の声をキャッチすることといえるからです。
そして、幼児のような素直さ、疑う心や固定観念のない純粋さが、その気づきの感度を磨く...
法華経の新しい解釈の中の法師功徳品第十九 P507の8行目に、
「心が澄みきって『我』がないために、先入観とか主観とかによって真相がゆがんで目に映るということがないからです。また、つねに心が平静であらあらしい感情の波が立っていないためにも、ものごとの正しい像が目に映るのです。」
童心は道心に通じる
素直という、謙虚な心で自らを内省する心でいることが大切ということですね。
苦しいときは気づきのチャンス
会長先生のご著書「こころの眼を開く」は、私たちが何かに気づき、受取ってほしいと願ってくださり上梓して下さいました。
皆さんも、日々いつも手にとり拝読して下さっていると思います。
佼成の中にどん底にいた自分に光が差し、うれしくて涙があふれてきた と、ものごとを見る目が一変されたお便りの文面があります。
本当に苦しいときこそ、大事なことに気づく契機、またもう一つここで大切なことは、気づきのきっかけが何であれ、自分にないものには気がつかない。
ふれる縁に触発されて自分にあるものが目覚めたといえるのです。
「こころの眼を開く」を拝読し、会長先生のあたたかなお心を感じ、仏さまのお慈悲を頂いていることが、なんて幸せなことかと、ありがたく、生かされている喜びがわいてきます。
一月を「正しく心を修める月」として正月といいますが、清新な気持ちで法悦の日々を送れますように、門出の年を一歩踏み出し、
“何ごとにも全力を出しきっていく”
“人さまのためにお役に立つ”
此の二つの心で生きがいを持って生きてまいりたいと年頭にあたりお誓いしたいと思います。
皆さん、心の眼を開く気づきを、出会うご縁の中で、神仏の問いかけてくださる声を、いっぱいキャッチできる一年とさせていただきましょう。
今年もよろしくお願い申し上げます。
合掌
滋賀教会長 関戸 快枝