九月に入り、そろそろ田を刈り新米の収穫、秋の虫の音が聞こえる
季節と移り変わってきました。
敬老の日、お彼岸を迎え、命への感謝と自然の恵みに感謝。
報恩感謝をしっかりとさせて頂きたいと思います。
今月は、”年齢を重ねる”と題して会長先生からご法話を頂きました。
老いに関係なく今を大事に、若くても年齢は重ねていきます。
ただ何もしなくて、年を重ねていくのではなく、感謝を重ねることが、
年齢を重ねることではないかと思います。
◇「老いる」とは
釈尊は「ただ年をとっただけなら『空しく老いぼれた人』といわれる」
とおっしゃり、「他を思いやるまごころと徳を具え、慈しみ深い人こそ
長老と呼ばれる」と明言されています。というお言葉から眼、耳、鼻、
舌、身、意の六つの感覚、知覚を浄めていくことではないかと思います。
開祖さまのご著書である「人生心がけ」の中で老年とはまさに熟年期
で人生最高の豊じょうのときです。その豊かな実りを楽しまなくては、
こんな勿体ないことはありません。たあいない愚痴で自分を貧しく、
みじめにするほど悲しいことはありません。と述べられております。
◇年をとることが喜びに
年をとると、足腰が自由にならない。目が見えにくくなった。と老いること
が淋しく、喪失感を感じますが、出来なくなったことを悲しむのではなく、
今あるものの中で感謝していくと喜びが生まれてくるのではないでしょうか。
京都大学の総長を務められた平沢興先生は、この生老病死を、
「四苦」ではなく、四つの喜びという意味で「四喜」ととらえておられます。
「死は無にかえるのではなく、新しい大自然の創造に参加するもの
である」と述べられております。と平澤先生の言葉からも人間は、
大自然の一部分であり永遠の命を頂いているんだと思うと四苦ではなく
四喜ということが、よくわかります。
会長先生は、老人の役割は、学んだことの一つ一つを胸に刻んで
次の世代に伝えていくことも老人の役割の一つであり、それは先輩
としての使命でもあるといえるでしょう。と述べて下さり、老いに負ける
ことなく力強さを感じます。
もう私はじゅうぶんしてきたから卒業だと思うことなく、尊い人として生まれ
使う命として、いくつになっても菩薩行をさせて頂き、生きがいと喜びを
感じて参りましょう。
とりわけ、人間としてこの世に生まれた喜びや生命の尊さ、有り難さ
など、人生の核心・要となるものを後生に伝えることは、まさに思いやり
の発露であるといえます。
老いていかなければならない人間が、いかに老いるかということを会長先生
のお言葉から真剣に道を求めて有意義な人生に、そして若き者も人生の
先輩を尊び、尊重し、大切にさせて頂きましょう。
東日本大震災で被災された方々、原発問題を決して忘れないよう、いつも
心に思い自らの心を浄めて耕して参りたいと願っています。私達は、毎朝
「私にできること: ↓↓ 」を歌っています。私にできることを、明日にのばそうでは
なく、今実行にうつしていきたいと思います。
合掌
滋賀教会長
関戸 快枝