春のお彼岸会を迎え、ご先祖さまに感謝の想いを込めて手を合わせて頂きます。
今月は近江八幡支部が、お役を頂きました。ありがとうございます。
合掌
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○「慎む」とは思いやること
〜中略〜
慎み深くあることについて、釈尊(しゃくそん)は「身(み)と言葉を慎み」や「身体、言葉、心を慎むのは善(よ)い行為である」など、先月号の「恥(は)じること」と同様に、その大切さをしばしば述べておられます。私たちはこの言葉を、ともすると一般的な生活規範(きはん)のように受けとめがちですが、良寛さんの歌を見てもわかるように、慎みとは、慈悲と一体のものではないかと私は思うのです。仏教学者であり、曹洞宗(そうとうしゅう)の僧侶でもあった奈良康明(ならやすあき)師によると、釈尊の教えは「すべて『慈悲』というものに根拠(こんきょ)をもって説かれている」といいますから、「慎む」ということも、思いやりの心を深めるものであればこそ、仏の教えとして説かれているのです。
私は、慎むとは、ひかえめにする事と思っていたので慎む=思いやること?でした。頭の硬さを感じつつ、何回も読ませて頂けました。
私は サンガ(同信の仲間)の方にも、地域の方に対しても自然体で思いやりの心で 接し言葉の出し方も考えてきたつもりでした。
でも 自分の苦手な人や、相性の合ない方に対して慎むとはほど遠い、酷い時は、仏頂面になったり 無視したりと恥ずかしいですが、表面だけの言葉をかけている自分に気づかせて頂きました。 相手の方にも、良い所もいっぱいあるのだからと、無理に認め様とする自分があります。
今回 他を思いやって言動を慎み接する事の大切さを教えて頂き、せめて気がつくかぎり意識して、分けへだてなく慈しむ習慣ができる様、努力させて頂きます。
○身近な実践から世界の問題まで
〜中略〜
建物が大きいからりっぱな教団なのではなくて、また伽藍ができたからそれで教団が成熟したということでもなく、そこに集う同信の仲間一人ひとりが、仏の教えを学んでいつもいきいきとして、謙虚(けんきょ)で慎み深く、それがひいては地域、社会の人びとの心にぬくもりや元気を与える――そのような教団でありつづけることが大事だと伝えたかったのでしょう。
その意味でいえば、本会の「一食(いちじき)を捧(ささ)げる運動」が長くつづけられているのはとても重要なことです。
今年、新しい年を迎えてすぐ、能登の震災に大きな衝撃を受けました。 今もまだ水の出ない地域など、テレビのニュースで流れる映像に胸を痛める毎日です。
三食、食ベられる事、トイレに行きたい時にいける事、毎日温かいお風品に入れる事、1つ1つに感謝するばかりです。今私たちが出来るわずかな一食募金が少しでも被災者の方々に援助できる場所を与えて下さった開祖さまに感謝の心を深めつつ、今後も生きた一食をさせて頂きたいと思っております。
合掌 東近江支部 T.S
(太字は会長先生ご法話3月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます
]]>二月三日は節分です。
節分は「心を切り替え、精進を新たにする日」でもあると教えてもらっています。
貪(貪る心)・瞋(怒りの心)・痴(愚痴)の三毒という 心の鬼を追い払い、やさしさや思いやりを大きく育てていけるよう意識をして日々送らせて頂きたいと思います。
今月は日野支部が お役を頂きました。ありがとうございます。
合掌
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○人間の基本
同じ「心の鬼」でも、それを一文字で「愧(き)」{忄(りっしんべん)に鬼}と書くと、意味あいがまったく変わってきます。こちらのほうは、むしろ払ってはいけない心、私たちがけっしてなくしてはならない心といえるものです。それは、自分の言動の過(あやま)ちや至らなさに気づいて恥(は)じる心です。
○恥じることで救われる
では、私たちは何に対して「恥じること」が大事なのでしょう。親鸞上人は「自らの罪を恥じる」といわれますが、罪とはどのようなことだと、みなさんは思われますか。
「恥(はじ)を知れ」という言葉を、人を非難(ひなん)するとき、その相手に向かって使う人をときおり見かけますが、この言葉は自分自身に向ける言葉だと思うのです。
わが家の元気な両親は学びの会やサークルに出掛け、生き生きしているのは有り難いのですが、「今度、ここに行くの」と言います。つまり、私に送迎を頼んでいるのです。私はその度に出勤時間を調整するのですが、たび重なると「申し込む前に聞いてくれないのね」「趣味のお出掛けに関しては自分で段取りしてくれませんか」と言ってしまいました。「恥を知れ」とまではいかずとも一瞬にして両親(相手)を非難して言葉にしているのです。会長先生は、
〜中略〜
私たちは「恥を知る」ことによって、日常生活のなかで知らず識(し)らずに犯している罪から救われるということです。自分を苦しめたり、人を傷つけたりしないですむのです。
と教えて下さいます。自分の言動を振り返り、どれだけ相手に向けた非難を言っているのか意識し、伝え方を学んで自他共に救われる日々を一日でも多く精進して参ります。 合掌
竜王支部 K.Y
(太字は会長先生ご法話2月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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新しい年を迎えた元旦に能登半島地震、飛行機事故が相次ぎ人知では想像もつかない出来事がおこりました。 そんな中で1月号の佼成の会長先生のご法話を引用させて頂きました。
そして、今、私が出来る事は、亡くなられた方々のご冥福を祈り、被災地の早期復興を願い、義援金となる一食募金に意識を持ってさせて頂きます。 合掌
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あけましておめでとうございます。
昨年1年間、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。
おかげさまで本年教会は、発足60周年を迎えさせて頂きます。
この1年、皆さまと共に感謝の心で、そして、コロナが緩和されて再会できるようになったことを喜んで、布教させて頂きましょう。
合掌
令和6年元旦
滋賀教会長菅野起代
]]>釈迦牟尼仏ご命日
菅野教会長お言葉
動画23分
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菅野教会長お言葉
2023年12月10日
動画9分30秒
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○「災難に逢う時節には・・・・逢うがよく」
災難や生老病死(しょうろうびょうし)の苦しみは、この世のだれ一人として避けることができないものです。人の力ではなすすべのないもの、仕方がないことなのだから、それをあるがまま受けとめることが、その辛苦(しんく)に押しつぶされないですむ唯一の手立てなのです、と。
会員教育でも苦があるからこそ人は成長できるのですと、苦の捉え方の大切さを教えて頂いています。
あるがままを受けとめることは、苦から逃げ出さないで自分の見方を変える機会を頂いている時なのだとも教えていただきます。
過去に大きな手術をしたときは不安もありました。自分の体でありながら自分では治せません。病院の先生やスタッフの方々、また家族や多くの皆さんのおかげ様の中で生かされていることに気付くことが出来ました。ありがとうございました。
○ただ「心田を耕す」のみ
災難も病も、それに遭(あ)えば嘆(なげ)きたくなるのがふつうです。しかし、それらをこの世のことわりとして受け入れ、善知識ととらえれば、辛苦に打ちひしがれるどころか、心静かに、たくましく前へと進む智慧(ちえ)に目ざめるということです。
〜中略〜
そのうえで、私たちにとってさらに大切なのは、欲や怒りを超えて、和(なご)やかな心をもって日々、精進(しょうじん)をつづけること、心田(しんでん)を耕(たがや)すことです。
私たちは毎日をいろいろな人のおかげ様で生かされています。日頃からいつも、そのことに目を向けていれば問題ないのですが、自分の我欲がその様な思いを消してしまうことがあります。
「心田を耕す」を今一度読ませていただきました。苦難のときも自分を見失わず、生活が順調のときであっても、おごることなくいつも感謝で生きることの大事さを学ばさせて頂きました。日々の生活の中で実践させていただきます。
合掌 教務部 Y.S
(太字は会長先生ご法話12月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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11月15日 滋賀教会式典
菅野教会長かみしめ
動画7分28秒
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会長先生ご法話の菅野教会長かみしめ
動画23分35秒
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〇「知」が「病む」と「痴」になる
ものごとを理解し判断する能力としての知性、それを支える知識や知恵、そうした「知(ち)」が「疒(やまいだれ)」に囲まれた状態です。つまり、「知」が「病(やまい)」にかかっているから「愚痴をこぼす」と受けとれるのです。
その病を癒すには何が大切か。私も振り返ると、感謝がないときは、愚痴ばかりこぼしています。職場でも、家庭でも、自分の事は、二の次、相手の事、身の回りの環境の事、特にご法のご縁から遠うのいているときは、自分の事が見えず、まさに、「知」が「痴」にかかって愚痴をこぼしております。でも、教えを聞かせて頂いているとき、お説法を聞かせて頂いているときは、自然と感謝の念が深まり、愚痴をこぼしていない自分があります。
〇愚痴を聴かせてもらう
だからといって愚痴をいっさい口にしてはならないとなると、それもまた窮屈(きゅうくつ)です。(中略)やるせない気持ちで吐(は)く愚痴や弱音は、ときに必要なのかもしれません。それが、やがて「いっても仕方がないことにとらわれるのはやめよう」と自ら気づき、考え、新たな気持ちで前を向く出発点なることもあるのです。
会長先生より、人さまの愚痴を聞かせていただく受け皿のような私たちであることの大切だと教えて頂きました。いつも感謝でいればいいのですが、なかなかそうはいきません。学校や職場で、周りのみんなと同じように愚痴をこぼしている日常です。それがだめでなく、とても大事な、自ら気づき、考え、新たな気持ちで前を向く出発点にすればよいと教えてくださって、とてもうれしく、勇気が湧いてまいりました。そして大事なのが人様の愚痴をきかせていただく受け皿のような私たちになることを今月教えて頂きました。人様のつらい気持ちを聴ききる、「知恵の心」を持てるように、さらなる精進をさせて頂きます。
合掌 総務部 Y.U
(太字は会長先生ご法話 佼成11月号より引用)
今月の会長先生ご法話はこちらからご覧いただけます。
]]>菅野教会長かみしめ動画
2023年10月4日
動画15分
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令和5年10月1日の式典から
菅野教会長 お言葉
動画34分10秒
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今月は、開祖さま入寂会の月でもあります。
わかりやすい言葉や文章で「ごきげんよう」にかいてくださったのを
引用させていただきました。
一人でも、通りすがりの方 バス停で待ち時間の間に
読んでいただければ嬉しいです。
よろしくお願いします
合掌
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○怒りをどう抑えるか
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)。仏教で人の心を毒する煩悩(ぼんのう)とされるこの三つは、心だけではなく体の状態にも影響を与える毒といわれます。ことに「瞋恚=怒(いか)りや憎(にく)しみ、恨(うら)みの感情」が肉体に与える悪影響は、科学的にも証明されています。
中略
「瞋恚」の正体は、自分の思いどおりにならないとか、人に軽んじられたといっては怒(おこ)ったり、人を恨んだりする「小我(しょうが)にもとづく自己中心の怒(いか)り」で、釈尊(しゃくそん)いわく、それは「猛火(もうか)より甚(はなは)だし」く自他の身心(しんしん)を傷つけるのです。
おかげさまで今月で息子が1歳の誕生日を迎えます。今月のテーマが「怒り」という事で日々の自分自身を振り返ると、出産という大きな変化があり、些細なことでイライラしたり自分の中の怒りの感情に自分自身が振り回されているように感じました。
時間も生活も子ども中心になり、夜泣きで睡眠不足が続き余裕のない日々でした。
今考えると、怒りをどう抑えるかというより周りの環境や相手をどう変えるかという感情で動き、自ら苦を作っていたような気がします。佼成10月号のタイトルにあるようにその怒りが自分の心を傷つけていた事に気付きました。
○損して「徳」を得る
自分が損をするように思えることも怒(いか)りや欲をおさえて受け入れ、身を削(けず)って人の役に立つならば、結果としてその人の「徳」が高まると教えるものです。すなわち、そういう「損」は、めぐりめぐって自分に喜びや心の安定をもたらすのです。同じ損得勘定で動くなら、目を血走らせて欲得(よくとく)に走るよりも、人に譲る気持ちで損を引き受けるほうが、身心両面においてよほど健康的で、つまりは「得」だということです。
「同じ損得勘定で動くなら、目を血走らせて欲得(よくとく)に走るよりも、人に譲る気持ちで損を引き受けるほうが、身心両面においてよほど健康的で、つまりは「得」だということです。」という部分が印象に残りました。
夫婦間でもそれぞれ育った環境や周りの縁が全く違うので、ちょっとした事で考え方や習慣の違いがあり息苦しい事がよくありました。その息苦しさは私自身が自分の思い通りにしたいという我が原因だと気付きました。これからは心に余裕を持ち、人に譲る気持ちで損を引き受けられるようになりたいと思いました。
合掌 青年部 K
(太字は会長先生ご法話10月号より引用)
今月の会長先生ご法話はこちらからご覧いただけます。
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菅野教会長かみしめ
2023年9月15日
動画7分37秒
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菅野教会長かみしめ
動画10分2秒
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令和5年9月1日の式典から
菅野教会長 お言葉
動画27分48秒
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9月は「彼岸会」があります。
中秋の名月と、うさぎさんの家族をテーマに表現しました。
また、彼岸会を通して自分を愛し敬い生きることが、先祖に感謝し、その恩に報いることに通じると、教えて頂いています。
ご先祖さまが、喜んで頂ける私達にならせて頂きたいと思います。
有難うございました。
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今月の会長先生のご法話は『欲ばりは煩いのもと』です
◯貪りが招くわざわい
「天高く馬肥(こ)ゆ」といわれる秋は食欲の秋ともいわれます。暑さがやわらぎ、食欲も増してなんでもおいしくいただけるのはありがたいものです。ただし、食べすぎて後悔することがないよう、ほどほどを忘れずにいたいものです。食欲旺盛で、少しの体重がふえたという悩みなら食事の量を控えることで解消しそうですが、釈尊は「いろいろな欲望を貪(むさぼ)り求めると、諸々の煩悩が彼に打ち勝ち、危ない災難が彼を踏みにじる」という表現で、貪るほどの欲深さがいかに身心にダメージを与えるかを教えてくださっています。(中略)
金銭や財産に対する過剰(かじょう)な欲とか愛欲へのとらわれなどが自他の妬み(ねたみ)や怒(いか)りや憎(にく)しみを生み、それがもとでトラブルという災難が降りかかってくるということでしょう。あるいは、「あの人は欲ばりだから」と疎(うと)まれたりするストレスが、体調にも影響するという災難も考えられます。釈尊は、「貪欲(とんよく)の生じた人が、もしも欲望を果たすことができなくなるならば、彼は矢に射(い)られたように悩み苦しむ」ともいわれてます。(中略)
利他(りた)の心を忘れずに欲望をほどほどに抑(おさ)える日ごろの精進(しょうじん)が欠かせないのです。
会長先生のご法話を拝読させて頂き、最近の私の心に歯止めを掛けて頂けた思いでいます。50才手前で身体の不良により職場が変わり、以前のような働きが出来なくなるとやはり収入が減るものですが、出来ていた事が出来なくなると色々な欲が出て、歌の一節ではないですが、「あれもほしい、これもほしい、もっとほしい、もっともっとほしい」みたいな欲望を貪るようになっていました。こんな体にさえならなければもっと自由が手にできていただろう・・・もっといろんな物が手にできただろう・・など物足りなさばかりが心にあるとご法話にあるように自他への妬み、怒り、憎しみが生まれ、トラブルにならなくても、それがストレスになり体調への大きなダメージになっていることに間違いありません。
まず人さま、周りの人を幸せにしたいという利他の心を持ち続けるためにはどうしたらいいのだろうか。
◯足ることを喜べる幸せ
ただ、私たち人間の欲そのものが悪いわけではありません。釈尊は「すべての人を救いたい」という大欲(たいよく)をいだかれ、慈悲心(じひしん)と利他の思いに根ざすその大欲を追い求めて、ついにだれもが幸せになれる心理・法を悟られました。もちろん、釈尊と同じ欲は私たちの命にも組みこまれていて、それが人類の発展や向上の源(みなもと)にもなってきたのです。しかし、欲も制御がきかなくなると「煩悩」に変わり、文字どおり煩(わずら)い悩むことになります。思うとおりにならなくて苦しみ、自分の満足を得るために見境(みさかい)がなくなって人間関係をそこなうなど、さらなる苦に苛(さいな)まれるのです。そうならないよう、仏教では「少欲知足(しょうよくちそく)―欲を抑えて足(た)ることを知る―の大切さを教えています。これが実践できれば、欲望の暴走による身心のわずらいも遠ざけられるのでしょうが、わかっていてもそれができない私たちです。そこでもう一つ、「少欲」の「少」を「小」の字に変えた「小欲知足」という表現をご紹介します。印象はほとんど変わりありませんが、パーリー語 〔インドの古い言葉〕 の「小欲」と「知足」にあたる言葉の意味にしたがうと、「小欲知足」とは「必要十分な量であることに喜んでいる」という意味あいになるようです。三蔵法師(さんぞうほうし)の名で知られる玄奘(げんじょう)は、「知足」の意味するところを深くとらえて「喜足(きそく)」と言い換え、足ることが喜びと伝えています。必要十分な欲が満たされることこそが喜びと知ると、足ることの喜びを味わいたくて、自然に欲を抑えられそうです。しかも、足ることを知りなさいと諭(さと)されるよりも受け入れやすく、気持ちを楽にして欲のコントロールができるのではないでしょうか。そして何よりも、必要十分な量で喜べるほど健康的で幸せな生き方はないと、私は思うのです。
幼い頃からよく親から「腹八分目がいいのよ」といわれましたが、自分の腹の八分目は人それぞれで、誰かに量を決められるものではないなどと諭されることに卑屈的になるものでしたが、「喜足」という 「足ることの喜びを味わう」ができれば健康的で幸せな生き方が出来ると教えて頂きました。「これだけしかない」を「これだけある」のような心の持ち方を持ち続けることによりストレスもなくなり、周りに気を配れる余裕を生まれるのだと教えて頂きました。必要十分な欲で満たされることこそが喜びと感じていけるよう、日々精進させて頂きます。有難うございました。
合掌 日野支部 壮年部 N・O
(太字は会長先生ご法話 佼成9月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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8月は、終戦の月を迎えます。
戦争で犠牲になられた多くの方々へ思いをはせ、平和の象徴である鶴で虹を作り、世界中が平和になるよう祈りを込めて作成させて頂きました。
今あることへ感謝し、思いやりにあふれた言葉で人に寄り添うあたたかな行ないをさせて頂きたいと思います。
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〇すべての国が滅びない手だてを
健康とは何かについて、世界保健機関では「病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも精神的にも社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」と示しています。これは、幸福の定義とも重なるものです。
しかし、ロシアによるウクライナへの侵攻(しんこう)、シリアやスーダン、ミャンマーなどでつづく内線、各地に存在する難民と人権の問題、日本においては周辺諸国との諸問題など、世界の現状を見るかぎり、ほんとうの意味で健康で幸福な暮らしをしている人はいないに等しいといわざるを得ません。世界政治の現実は軍事力に支配されていて、各国が軍備を充実させることで牽制(けんせい)しあい、それによって武力衝突(しょうとつ)を抑(おさ)えている状態ですから、たとえ一見、平和な国や地域でも、つねに軍事的緊張にさらされているといえるのです。
中略
〇自分を愛するように
私たちのような平凡な人間が、戦争をくい止めるのは現実的には困難なことです。しかし、信仰による心の向上を、社会・国家がよりよい方向に進むように役立てることはできます。慈悲の心で自他を見ること、その心を押し広げて、さらに地域社会も国も、みな自分と一体の大事な存在であるということを人さまに伝えること。信仰のあるなしにかかわらず、そうして自国はもちろん世界の国ぐにや人びとを愛し、思いやる仲間が多くなることが、だれもが安心して生きられる世界の現実につながるのです。(佼成8月より)
もうすぐ8月15日がやって来ます。この日は戦争で犠牲になられた方々への慰霊と、世界の平和を祈願させて頂く日です。今月のご法話で、今の世界政治の現実を詳しく教えて下さり、また、私たちのような平凡な人間が、戦争をくい止めるには現実的には困難なことを教えて下さっています。最初、拝読させて頂いた時、正直、「今月は何てスケールの大きなお話し」なんだろうかと思わせて頂きました。そんな中で、今の世界の現状をしっかり見つめられる目を持つ事の大切さを頂いている、と思わせて頂きました。
自分達の生活やまわりの環境が満たされ過ぎている今、またそれらがあたりまえの様にさえ感じている私達に、どうして行くことが、皆が安心して生きていく事なのかを改めて問いかけてくださっている様にも思わせて頂きました。朝夕のご供養で、「ウクライナ情勢の平和祈願」を唱えさせて頂いていますが、ともすれば、ただツラツラと読み上げるだけで終わっている様に思います。今回の投稿のお役のお陰さまで、ご供養の時だけでも、ど真剣に平和的解決を念じさせて頂こうという気持ちにならせて頂きました。
自分の生活に目を向けてみると、小さな争いが全く無いとは言いきれません。ほんのたまに、妻とちょっとした口ゲンカになったりする時もあります。そんな時は、「自分は間違っていない。正しい。」とか「女のくせにうるさい!」という様な醜い心が表れます。相手を認めようという思いは少しもわいて来ません。ある程度時間を置いてから、悪い事を言ったなあと反省はするものの、しばらくは自分自身も情けない気もちになります。まず、どんな時でも相手を認め、自分も相手も尊いんだ、かけがえのないものだからいつも大事にしていこうという思いで、これからは誰に対してでも接していける様、身近な平和を築いていける様になりたいと強く思わせて頂きました。ご法の縁を頂いたお陰さまで、こんな私が、小さいですが世界の平和を願える自分にならせて頂けた事に感謝させて頂きます。ありがとうございました。
合掌
甲賀支部 K
(太字は会長先生ご法話 佼成8月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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滋賀教会式典
菅野教会長かみしめ
令和5年7月15日
動画8分
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佼成7月号
会長先生ご法話拝読と菅野教会長かみしめ
令和5年7月1日
動画23分
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今月は七タの月です。
毎年七月七日の夜に願いごとを書いた 色とりどりの短冊や願いを込めた飾りつけを 笹の葉につるして星にお祈りをする。 道行く方々の それぞれの夢や願い、目標が 叶えられますように。 という祈る心を持って 作らせて頂きました。
今月もよろしくお願い致します。
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〇四つの栄養
仏教では、ほどほどの量の食事を感謝とともにいただくことを大切にしています。その感謝は、あらゆるご縁によってもたらされた食材を無駄にしない工夫や命を尊(とうと)ぶ心につながるものです。
さらに仏教で特徴的なのは、身心を健康に保つ「栄養」を、口からとり入れる飲食物だけとは見ていない点です。
では、仏教でいう飲食物以外の「栄養」とは何か―。
その一つは、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)という感覚器官をとおして、体や心に受ける情報という栄養です。これは、とり方によって、私たちの欲や怒りの心を育てることもあれば、穏(おだ)やかな心を育てる滋養(じよう)にもなります。
食をとおして元気に生きている私達に、心身をもっと健康にと教えて下さっているのが「食べ物からの栄養」「心を養う栄養」を、と戴いています。
高齢者となって考える時に、子どもの頃、親からの言葉に「食べ物は好き嫌いなく何でも食べ、よく噛んで食べることは心身も鍛えられるのだ!」
親から伝えられていた仏教の教えに感謝です。
〇何ごともバランスよく
「ただ生きる」のではなく「健康で幸せに生きる」ことは、人間に与えられた一つの特権です。その本領(ほんりょう)を発揮するという意味で、釈尊は「真実(真理を説くこと)は、諸々(もろもろ)の飲料のうちですぐれて甘美(かんび)なるものである。明らかな智慧(ちえ)によって生きる人を、最上の生活と呼ぶ」と説かれました。仏の教えを学び、人にも伝え、あらゆるおかげさまに感謝して生きるなかに、健康で幸せな人生があるということです。それは、たとえば食事の際に「いただきます」と手をあわせる一瞬に育まれるといえるのです。
食べ物に不自由なく、何でも食べられる幸せに、あらゆるおかげさまに感謝、感謝です。
幸せで健康に生きることを教えて戴きました。ありがとうございました。
合掌
湖南支部 壮年部 N
(太字は会長先生ご法話 佼成7月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
]]>釈迦牟尼仏ご命日式典
菅野教会長おことば
2023年6月15日
動画14分43秒
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朔日まいり 布薩の日
菅野教会長 こうせい拝読とかみしめ
2023年6月1日
動画 25分
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自然にふれて感性を磨く
大都会といわず地方の小都市といわず、私たちの暮らしは、つねに自然の営(いとな)みとともにあります。私が十年ほどすごした新潟県の菅沼(すがぬま)でも、冬になれば雪が降り、夏が近づくと田植えをしてといった具合に、暮らしはいつも自然とともにあって、私も子どもながらに農作業を手伝い、鎮守(ちんじゅ)さまでの盆踊りやお祭りなどの行事を楽しみにしていました。
どれだけ時代が移っても、四季折々の自然や風物はつねに生活と密接に結びついているのですが、それがいかに貴重なことかを私たちは忘れがちです。季節の訪れを告げる草花や昆虫の生命力に目を見張り、大自然の織(お)り成(な)す美しさに感嘆(かんたん)するようなことも、大都会では少なくなります。(佼成6月より)
今月の御法話のテーマが自然と云うこともあり、私の仕事に相通じるモノを感じました。昨年より自然の中(と言いましても、大人がたしなんだり、メジャーなスポーツが行われる競技場の一部ですが)で仕事をする機会が増えたからです。毎週、山へ行き、自然に囲まれた中で仕事をしております。
その施設は人工物でありますが、汚れた水をきれいにする肝心な部分は、真に自然だと思うからです。自然の中で、汚れた水をきれいにする施設の維持管理という仕事をさせて頂いている自分に「自然」をテーマとした御法話を読ませて頂き、寄稿させていただくことに、誠に有り難いご縁を頂いたと感謝しております。
さて、私の住んでおります地域は、自然に囲まれたのどかな所であります。ここ数十年の間に、すっかりと開発が進み、山や丘が一つの街になりましたが、それでも自然豊かな里山が近所にあり、季節の風物を感じさせていただいております。
黙々と真理を実行する自然
また、レイチェル・カーソンの言葉は、美しいものや神秘的なものを見て「きれいだな」「不思議だな」と感動できる感性があれば、苦しみや悲しみさえ乗り越えることができると教えています。
豊かな感性は、苦悩(くなん)から救われる道をみつける柔軟(じゅうなん)な心のはたらきにも通じていて、そのことによって命尽(つ)きるまで生き生きとすごせるというのです。
(佼成6月より)
『美しいものや神秘的なものを見て「きれいだな」「不思議だな」と感動できる感性があれば、苦しみや悲しみさえ乗り越えることができる』
今月の御法話の中で、一番感銘を受けた部分です。なぜ、一番感銘を受けたのかといいますと、この頃の普段の生活の中で、ついついネガティブシンキング(後ろ向き)になりがちな自分に、ポジティブシンキング(前向き)を思い出させていただいからです。会社では、以前まで融通が効いていた部分が効かなくなり、時間がなくなり、限られた時間の中で時間に追われ、一向に仕事が片付いていかない状況でした。今回の御法話を拝読させて頂き、心を亡くした状態の私に、「これも神仏のお計らい」という究極のポジティブシンキングを思い出させて頂きました。仕事上、家庭等でネガティブな事があっても、毎週、自然の中での施設で仕事をする時、自然に触れられることにも感謝していこうと思います。
地球は水の星ともいいます。表面積の7割が水(海)です。海、湖沼、河川のいずれも私達に見せる姿は違うように、仕事で維持管理している施設の水も全く同じ時はありません。これも真理だと思えるようなりました。大自然には、秩序が崩壊して、あらゆる状態が悪化しても、時間が経てばやがて元に近い状態に戻ろうとする働き(真理)があります。私も大自然に倣い、仕事に関わる水、その他の諸所の状態が悪くなっても、ポジティブシンキングで良くしていこうと思いました。
今の仕事に就く前、私は住宅設備の修理業をしておりました。
心が病みかけておりましたが、自然の多い地域で、水をきれいにする設備の維持管理業をすることで、立ち直る事ができました。これも一年近くその地域で過ごして自然と季節の風物に触れた事だと今でも思い、感謝も忘れません。
合掌
大津支部 T.K
釈迦牟尼仏ご命日式典
菅野教会長おことば
2023年5月15日
動画36分47秒
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ココ最近は、目を通して深く噛み締めることまでには至っていなかった。と、勿体ない事に気付く自分と周りの関係各者への配慮の乏しさを反省しました。このブログのお役を頂きましたことで、いろいろと自分自身を振り返ることが出来ました。本会の会員である事に心より感謝いたします。改めて5月のご法話を拝読させていただきながら私自身に置き換えました。
確かに以前とは、心が傷つきやすい時代だと思います。私の幼少のころから社会人になり、しばらくまでは、傷つくと言うよりは、学んでいることだから、頑張らなければならないという前向きに考えるようにしておりました。
このままだと、当たり障り無く生きて行く方法を選ぶ人が増え、閉塞人社会となり、本来、人が持っている良きコミュニケーション能力が活かされない。また、この社会と協働する生き方を一人ひとりがどのようにすれば良いのか。楽に生きる事は成長を妨げる。失敗を如何にも体験したように思うことで理解は深まります。また、自分を責めないで、自分にとって思いやりをもって現象と、向きあう―セルフ・コンパッションという考え方に心したいと思います。
これまでの佼成会会員諸先輩方から教わった事を自らが真似る。真似るは学ぶである事を教わりました。
〇自分が元気になることで
自分を思いやるというのは、たとえば何か失敗をしたときでも、そのできごとを否定的に見ないで、「こういうことはだれにでもあることなんだ」と大きな受けとめ方をしたり、「この経験は私の財産になる」と前向きにとらえたりして、一方的に自分を責めたり罰(ばっ)したりする感情に支配されないことです。ものごとの善(よ)し悪(あ)しを一概(いちがい)に判断する見方から離れると冷静に事象(じしょう)と向きあえますし、そこにあるのは悪いことばかりではないと気がつけば、心は楽になるはずです。
ただ、「自分を思いやる」という表現は自分を甘やかすことのようにも聞こえて、自己を律(りっ)する仏道精進(しょうじん)などとは正反対のあり方だと思う人がいるかもしれません。しかし、自分を思いやるというのは、つまるところ自己と冷静に向きあって唯一無二(ゆいいつむに)の自分と出会い、心の調和を保(たも)つことで、それは私たちの精進にも通じます。その意味でいうと、私たちは日々、心の健康法を実践しているともいえるのです。
(佼成5月号より引用)
私は支部壮年部の皆様には、様々な配慮に感謝しております。私は常に明るく元気で周囲の方々と触れ合うことで、自身を認めて頂いていると思っております。なので、これまで通り引き続き笑顔絶やすことなく、まず「自分」が明るく元気になって思いやりの輪を広げていくことが大切と教えて頂きましたので、回りの方々と共に修行精進させて頂くことをお誓い申し上げます。
合掌
湖北支部壮年部N・Y
(太字は会長先生ご法話 佼成5月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
]]>釈迦牟尼仏ご命日式典
菅野教会長おことば
2023年4月15日
動画21分
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一般の人達にどういう表現をすれば「降誕会」が分かって頂けるかと考え、「花まつり」なら分かって貰えるかなということで、大きく表現させて頂きました。
そして、お釈迦さまを世界中のみんなが囲んで「明るく、優しく、温かく」世界中のみんなが笑顔になりますようにと願いを込めて、掲示板に書かせて頂きました。有難うございました。
合掌
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菅野教会長 灌仏とおことば
動画 15分
]]>令和5年佼成4月号 会長先生ご法話拝読と確認
佼成4月号会長先生ご法話
『朝が大事』より
滋賀教会 菅野教会長
動画25分25秒
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「日々感謝で目覚め」
「春眠(しゅんみん)や慈母(じぼ)の懐(ふところ)にあるごとく」 (佐藤春夫)。春の朝のぬくもりと、心地よい気分が伝わってくる一句です。たがらでしょうか、漢詩に「春眠暁(あかつき)を覚えず」と詠(うた)われ、「朝寝(あさね)」は春の季語になっています。たまにはそういう日があってもいいでしょうが、「朝こそすべて」といわれるくらい朝のありようは大切ですから、年度初めにあたり、一日のスタートである朝の意義をあらためて考えてみたいと思います。
まさか今月ブログのお役を頂くとは思っていませんでした。 実は今頂いている課題になかなか取り掛かれずにいて、締め切りまであと1か月足らずなのです。「今日は?だから明日やろう」、「いざとなったら集中して出来る」等と毎日自分に言い訳をしながら ダラダラと3週間以上が過ぎてしまっている。そんな時、支部長さんからこのお役を頂きました。拝読させて頂きながら何故、このお役を頂いたのかその意味について考えました。
「そうか、4月は年度初めなんだ。一区切りついた後のスタート、節目、切り替えの時なんだ。」と改めて気付かされて、ダラダラと日常をやり過ごしたり時間を無駄にしている現状を振り返らせて頂きました。
まず自分の事から申しあげれば、私はいま、毎朝四時に起床します。人生の先輩である千玄室(せんげんしつ)先生(裏千家大宗匠(うらせんけだいそうしょう))に倣(なら)ってはじめた習慣です。ただ最近では三時ごろに一度、目が覚(さ)めて、四時に設定した時計のアラーム音が鳴る前に自分で目覚まし時計を止めて起きだすことが多いのですが、それも年齢を重ねて時間を有効に使える体質になってきたと受け止めれば、嬉しい変化と言えましょう。
会長先生は朝四時に目覚ましを、私は五時と五時半の二段回に。しかし、何時に寝ても必ず一時半頃と三時頃に目が覚めてしまいます。目を閉じて五時なるのをじっと待ってるのです。たまには時間が来るまで、熟睡したいと思います。でもご法話に触れて、「そうか、年齢を重ねて時間を有効に使える体質になったと受けとめればいいんや。」と思えると、次の日また一時半に目覚めた時、起きて少しですが課題に取り掛かることが出来ました。
「誕生偈ではじめる一日」
ここで大切なのは、長く合掌するということよりも、合掌礼拝が神仏に通じており、その敬虔(けいけん)な気持ちがストレスを和(やわ)らげ、自然治癒力(ちゆりょく)など潜在的(せんざいてき)な力を引きだす可能性があることです。まして、朝いちばんにまごころをこめて神仏と向きあう合掌ともなれば、帰依心(きえしん)の深まりとともに、持ち前の活気がより呼び覚まされるのではないでしょうか。 私たちは、そういう合掌を毎朝しているわけです。
また、「一日は一生の縮図(しゅくず)」ともいわれますが、その意味でいうと、朝の目覚めは誕生の瞬間そのものです。「今日(こんにち)ただいま誕生」。そういう新鮮な気持ちで朝を迎えると、日々新たになり、きのうまでのとらわれを離れた前向きな心で一日をはじめることができるのです。
私は会長先生のおっしゃる様な新鮮な気持ちで朝を迎えた事があるだろうか…。コロナ禍になって、以前よりも増して御宝前の前に座ってご供養をさせて頂いたり、ゆっくりとご先祖さまと対話する事が無くなりました。朝の御供養はとても大切だとわかっているのに神仏と向き合う事から離れてしまっています。 だからでしょうか、大切な朝から気がたびたび滅入るような事が起こるのは。
すると、やはり仕事をしている時もその事が頭から離れず、一日の大半をそういう状態で過ごしてしまう。自分の思っている以上に心が疲れてしまっているのか、ただただ思考を停止させる為に手のひらの中の別世界(携帯)に入り込んでしまう。「良くないな。」と思いながらも、やるべき事が後回しになる。これって、その事柄(朝の出来事)にとらわれているんですね。「朝の目覚めは誕生の瞬間そのものです」そんな風に考えた事はありませんでした。
「今日ただいま誕生」
これは心のスイッチを切り替える言葉なんですね。日々老いていくのでは無く、日々新たになる。そういう感覚を私も味わいたい。
これを機に心を込めた合掌と仏様と向き合える自分にならせて頂ける様にスイッチを切り替えて、まずは朝の御供養から始めさせて頂きます。ありがとうございました。
合掌
東近江支部 A
(太字は会長先生ご法話 佼成4月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
]]>菅野教会長さんよりかみしめを頂戴致しました。
動画にて配信させて頂きます。
また功労者表彰は3名の方が表彰されました(敬称略)
おめでとうございます。
動画 12分53秒
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待ちに待った春の気配に気持ちがはな(花)やぎます🌷
ご先祖様に感謝し、今生きてることに感謝しましょう。
何気ない小さな幸せを噛み締めてもらえるよう、心を込めて作成しました。
合掌
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健康と元気は「心」から です。
体と心は深くつながっている
外出の機会が減ったここ数年、家に籠(こも)ることが多くて運動不足だという人は少なくないと思います。歩かないと足の筋肉も落ちてきますから、少し歩くだけでも疲れやすく、それでますます外出するのがおっくうにもなりがちです。
その筋肉については、筋肉の量の多い人ほど長生きができるという報告があるようです。筋肉と、免疫や血糖値との関係などからそのようにいえるそうですが、加齢とともに筋力が衰えてくることは私も実感するところなので、酷暑(こくしょ)の夏は別にして、健康のため一日一時間ほどの散歩はいまも続けています。ただ、健康維持に欠かせないのは、何も「体の筋肉」の鍛錬(たんれん)だけではないように思います。
「健康の三原則」
まず一つめは、「心中常に喜神を含むこと」です。喜神の神とは、深く根本的な心のことです。
つまり、いつも心の奥深くに喜びをもつということですが、それは、目の前で起こる一つ一つのできごとを、仏の説法を頂戴する気持ちでつねに悦びをもって受け入れるということではないでしょうか。
たとえ苦しくても「仏さまはいま、私に何を教えてくださっているのだろうか」と、目の前の現実を前向きに受けとめるとき、その苦しさの向こうに救いの光があることに気づいて、私たちの心は磨かれ、成長するのです。
「心の筋肉」を落とさないための原則の二つめは、「心中絶えず感謝の念を含むこと」だといいます。たしかに、「ありがたい」という感謝の思いは、その言葉を口にするだけでも私たちにいつも新鮮な感動をもたらしてくれます。
三つめは、「常に陰徳(いんとく)を志すこと」です。これは実際に人知れず善い行いをすることだけにとどまらず、日々の暮らしの中でふれあう人を思いやることも、相手の利益や幸せを願って「まず人さま」の実践を心がけることも含まれると思います。そして、このような心になれば体も健康になるという意味で安岡師はこれらを「健康の三原則」というのです。
ただ、私たちからすれば、この三つが心に修まっている人をこそ菩薩と呼ぶのではないでしょうか。
小学生のころには、親指をケガした時には何々が足りないとか、足首を捻挫したら何々に感謝していないと、事が有る度に母から云われたものです。その頃は何も解らずにいましたが「ご法は聞くだけで毛穴から入るもんだよ」と生活の中で常に云われていました。そんな母も今年の一月に満90才の人生を全うしました。
人生は菩薩行ですよと口癖のように云っていました。
今になって思い出します。歌手・森進一「おふくろさん」の歌詞を・・・雨が降る日は傘になり、おまえもいつかは世の傘になれよと教えてくれた・・・
亡き父からも「長者の万灯より貧者の一灯」を解説して貰い、商いの業に邁進してきました。
日々、生活の中で「ありがたい」とか「ありがとう」と口に出していると、新たな出会いや感動と巡り合う機会が多々あります。
生活の中で『利他の心』にて相手を思いやる心で日々を送っていると、巡りとの相互関係も良くなり、腹立つこともなく、嫌なことも忘れます。
このような三原則は、商売(自営業)で生計を送っている身には、≪三方良し≫精神で「自分良し、相手良し、世間良し」と言い換えられるのです。
商売は「菩薩の行」、商売道の尊さは「売り買いいずれも益し 世の不足をうずめ 御仏の心に叶うもの」とあります。
健康の三原則を完遂することを目標に
40・50は洟垂れ小僧
60・70は働き盛り
90になって迎えが来たら
100まで待てと追い返せ
(渋沢栄一より)
を基に、日常生活に≪気≫を入れて生活しています。
ありがとうございました。
竜王支部 K
(太字は会長先生ご法話 佼成3月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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菅野教会長 九星解説とかみしめ動画
Youtube画面の概要ページに各解説の時間帯を書いています。(Youtube画面で∨ボタンを押すと表示されます)
各項目左側の時間(青文字)をタップしてもジャンプはしません。
動画1時間2分
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菅野教会長かみしめ
2023年2月15日
動画25分10秒
]]>佼正 会長先生ご法話拝読と確認 菅野教会長
2023年2月1日
動画 29分16秒
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〇「慢心」や「おごり」に気づく
老いも病も死ぬことも、それを自分のこととして受けとめるのはだれしもいやなものです。いつまでも、それらが他人事(ひとごと)であってほしいと願うのが人情なのかもしれません。
〜中略〜
釈尊はしかし、そのように思ったことは、若さや健康や命をいただいていることに対する「おごり」であったと反省されます。「若さ」を誇り、「健康」に甘え、「命あること」を当たり前と受けとめてその意味を知ろうともせず、いたずらに老病死(ろうびょうし)を嫌う―そうした考えの誤(あやま)りに気づかれ、ご自身の「おごり、高ぶり」を省(かえり)みられたお言葉が、「三つのおごり」というお諭(さと)しとして経典に残されているのです。
日々の生活の中で、如何にも知ってる・分かってる・やってると、うぬぼれて自分を過大評価し、思い上がった態度を取っている事があります。先日も、とある事で「そんな偉そうにしなくてもよいやろう!」と、子供から言葉が返ってきました。相手を怒らせてしまったり、傷つけたりしている自分があります。また、そう云うおごり高ぶっている時に限って失敗したりと、ミスを犯してしまいがちです。固定観念や自分の考え方に固執せず、相手の良い部分を吸収して、取り入れる謙虚な姿勢が大切である事を改めて教えて頂きました。
〇真に健康な人生を
経験を重ねると、私たちは人の気持ち、とくに人の悲しみや苦しみがよくわかるようになるといわれます。それは、人間が成長するということですが、私はそれを仏に近づいていくことでもあると受けとめています。ですから、命のありようやその有り難さに早く気づくことが大切なのです。
一昨年の十月、父が腰椎の一か所を骨折。その後遺症で大腿骨に神経痛が残り、介護認定4の要介護必要となり、ベットと車椅子の生活となりました。ご法話の中にある「健康ですごせることの有り難さ」を父の姿を通して教えて頂いているように思います。通院等の付き添いのお世話をさせて頂く事が今、私が出来る親孝行です。一年前に比べると少しずつではありますが、回復の兆しが伺えます。些細な事かも知れませんが、その進歩が自分のことの様に嬉しく思います。感謝と喜びで日々を送り、以前から教えて頂いている「ひとつ・ひとつを丁寧に。真心を込めて」接していきたいと思います。
合掌
近江八幡支部 N.H
(太字は会長先生ご法話 佼成2月号より引用)当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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『釈迦牟尼仏ご命日』式典
菅野教会長 年頭ご法話かみしめ
2023年1月15日
動画45分49秒
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菅野教会長
2023年1月9日
動画22分48秒
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菅野教会長おことば
2023年1月7日
動画6分47秒
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心から念じさせて頂きます。
甲賀支部 K 合掌
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昨年一年間、ありがとうございました。
無事修繕工事も終え
新しい教会での出会いがスタートします。
本年もよろしくお願いいたします。
年頭ご法話で、会長先生から
『皆共に、日々感謝の心で目覚めて元気で生き生きと精進していきましょう』と教えて頂きました。
どうぞ、お一人おひとりとの出会いを大切に
明るく 優しく そして温かな人に
ならせて頂きましょう。
合掌
教会長 菅野 起代
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会長先生ご法話拝読と確認
菅野教会長
2022年12月1日
動画30分
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2022年11月15日
動画13分
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今年もコロナ、ウクライナの紛争など大変な一年でした。
家族仲良く、皆んなが幸せになりますように思いを込めて作成させて頂きました。
掲示板を見てほんわかした気持ちになって頂けたらと思います。
今月もよろしくお願いします。
合掌
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〇煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)
世俗(せぞく)の暮らしをするなかで、この煩悩を具(そな)えているままに、だれもが苦しみや悩みから解放されると教えるのが、法華経(ほけきょう)をはじめとする大乗仏教(だいじょうぶっきょう)です。むしろ、煩悩があればこそ人格の向上をめざし、生きること死ぬことに迷えばこそ真理を求め、その結果、煩悩具足(ぐそく)の私たちが、苦しまないばかりか、いっそ煩悩をよりよく生かす智慧(ちえ)に転じることができるという、ほんとうの意味でみんなが救われる教えに出会えたのです。
〜中略〜
六波羅蜜(ろくはらみつ)教えもその一つです。ふり返ってみると、六つの徳目はどれも、欲や怒りや執着心(しゅうちゃくしん)などの煩悩と表裏(ひょうり)一体の実践で、そこには自己中心の心を菩薩(ぼさつ)のはたらきへと転ずるキーワードがつねに見え隠(かく)れしていたと思います。いま生かされているこの身、この心を、怒りや執着にではなく、菩薩の実践へとふり向けるスイッチ―それは、「利他(りた)」の心です。
我が家は11月27日に99歳(白寿)を迎えた義母を筆頭に、下は5歳の孫娘、家族7人で暮らしています。この一年を振り返る中、2人の孫達はどんどん成長し、反対に義母はひと月ごと、いや一日一日が変化の多い一年でした。認知の度合も月日を追うごとに変化し体力も落ちていくのがわかります。「おかあさん、おかあさん」と居ないと不安になり名前を呼ぶ、そんな状態が続くと、「いつまで続くんだろう」と思う自分がなさけなくなります。そんな時、大変な状態の親さんをお世話されているサンガの仲間を思い出し、みんな頑張っている、と思うと折れる心を戻す勇気をもらいます。仲間のおかげさまです。
遠く離れた実家の母も95歳認知も進んでいます。母のお世話をし、ささえてくれている妹家族に感謝せずにはいられません。「いつもありがとう」と感謝を伝える事ができます。母に対して親孝行は直接できないけど義母のお世話をさせて頂く事が、私の親孝行なんだと思えるのです。
〇「衆生と共に」を胸に
〜中略〜
浄土真宗(じょうどしんしゅう)の金子大栄(かねこだいえい)師は、この「衆生と共に」の言葉をとりあげて「いかなる自利(じり)の行(ぎょう)も衆生と共にであり、したがってまたいかなる利他の行も、自身の道とするもの、それこそ菩薩行というもの」と述べています。さらに「衆生と共に」という願いがあれば、見聞きするものごとはすべて正法(しょうぼう)を教えるものとなり、気づいたことはどれも道を求める心を後押しする力になるといって、「衆生と共に」生きる菩薩の人生は「そのままに道場である」と結ぶのです。六波羅蜜の実践の醍醐味(だいごみ)は、まさにここにあるのでしょう。
〜中略〜
一人の力ではどうしようもない現実があるとしても、私たち一人ひとりがどう生きるかを模索(もさく)し、身近でできることにとりくむひたむきな思いが、仏の大きなはたらきと一つになることを私は信じています。
息子夫婦孫、4人で夜寝る前必ず、ご宝前でごあいさつ、一日の感想を話し床に入ります。仏さまを中心にと教えて頂いてますが、ご先祖様への感謝を型からでも身につけている息子達です。日々の中で自分中心に自分の考えを基準にすると、あれもこれも違うと見がちですが、違いには理由も考えも有る、何で?と聞いてみる。そんな行動の中に理解が生まれる。待つ、おしつけない、見方はいろいろある。そんな心の機微(きび)が感じられる自分を目標に感謝で一年をしめくくりたいと思います。
合掌
教務部 H.Y
(太字は会長先生ご法話 佼成12月号より引用)当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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動画19分
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〇「空」の教えを受け止める
現象に対して、自分勝手に「性格づけ」や「色づけ」をするから、それが悩みや苦しみの種になる。だから、そうした性格づけなどせずに受け容(い)れてしまおう。そのほうが楽に生きられますよ、という助言は、「空」の教えによる、まさに生きる智慧です。
〜中略〜
ところが、私たちは「なぜか、クモはわるもの、チョウはいいものと分別(ふんべつ)(差別)」するなど、しなくてもいい無用な差別をしているというのです。
そういう差別と、必要な区別の違いを判断できる智慧をもったうえで、すべてのものに仏のいのちが宿っていることをしっかりと心にとめて、「好きな人・嫌いな人のいずれも、仏のいのちをもった人」と見る見方が、みんなが仲よく幸せに暮らすための活(い)きた智慧だということです。
現在、実家の母の介護を妹が診てくれています。週1回の訪問看護と、1泊2日のお泊りを介護サービスで利用しています。要介護5の認定を受けていますので、私は妹の体が少しでも楽になってほしいと思い、訪問介護の日を増やしてはと、たずねたところ今のサービスで充分という答えがかえってきました。妹は57年間ずっと母と過ごしてきました。1年前に母が入院してコロナ禍で見舞いも頻繁に行けず、その時が始めて1人で過ごしました。母と別れた分、今は少しでも長く一緒に過ごしたいという気持ちでいるのだと思います。以前は、妹は頑固なところがあるからと、母を見てくれる素晴らしい妹として見る事ができませんでした。今は少しずつ話す事で法に照らし合わせて妹の気持ちを思う事で、自分のかたくなな気持ちが軽くなった様に思います。
〇六つの慈悲のはたらき
〜中略〜
現実に照らせば、なにごとも自分勝手に考えないで、人に対しても、ものごとに対しても、そのあるがままを尊重しながら考えをまとめ、判断する、そういう智慧が私たちにはあるのです。
〜中略〜
「自分の幸せを願うなら、まず自分のまわりの人や世の中の安穏(あんのん)を祈りなさい」と日蓮聖人がいわれたのも、智慧の眼(まなこ)でものごとを見きわめれば、あの人もこの人も尊く、みな幸せになってほしいと願う慈悲(じひ)の心がわいてきて、利他(りた)の行いをせずにはいられないということでしょう。
私は、智慧を含む六波羅蜜の教えも、慈悲のはたらきを六つに分けたものと受けとめています。布施(ふせ)はもちろんのこと、「いまは持戒(じかい)、忍辱(にんにく)のときだな」と心をコントロールするのも、感謝のうちに日々をすごすのも、すべては人さまを思う利他の実践に結ばれ、それによって私たちはおのずと自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)の人生を歩むことができるのです。
今、この世に命を授けて預けたのは両親のおかげさまです。おかげさまと思える気持ちを育てて頂けて、佼成会にご縁を結んで頂いた導きの親のおかげさまです。今にいたるまで、ご縁になる方に導いて頂き教えて頂く毎日です。自分勝手な思いや考えをせず、あるがままを尊重しながら母や妹にご縁をつなげさせて頂きます。
合掌
総務部 K・S
(太字は会長先生ご法話 佼成11月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
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