5月「会長先生ご法話」に寄せて

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    5月の会長先生のご法話は「悠々として、心安らかに」です。


    ○妙好人・石見の善太郎
     妙好人というのは、白蓮華にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。

     

    〜中略〜

     

     ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、難しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。
     すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重に詫びて
    着物の代金を渡したうえ、「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産にもたせました。信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅をたべようとしたときです。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にもとりません。「どうして食べないのか」。主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと、話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。

     さて、もし皆さんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか
    (佼成5月号より引用)

     

     善太郎さんが余りにも心清らかな方なので、正直なところどのように解釈したらよいのか悩みました。それでこの草餅説法に登場する三人について、もしも自分がその立場であったならと考えてみました。
     もし私が着物を盗まれた信仰仲間だったら・・・
     いくら何でもいきなり仲間を泥棒呼ばわりできるだろうか?しかも着物代を受け取ったうえに、
    草餅まで貰って帰るなんて私には出来ないと思いました。謝罪を受け入れ、着物代を貰ったのならそれ以上の物をもらう必要があるのかと、考えてしまいます。
     では、もし私が善太郎さんだったら・・・。
     勿論、いきなり泥棒扱いされたのですから相手を許すことは出来ないと思います。謝罪したうえに
    着物代、さらには草餅まで持たせるなんて、とても私には出来ない事です。
     では、その家で働く娘だったら・・・。
     恥ずかしながら、とっさに誤魔化したり、つくろったり、しらを切ったり?する事はありますが、
    嘘をついて人を陥れるような事は出来ないです。でも、こうして私が○○だったらと考えたら三人の中で一番私に近いかもしれないです。
     以前、主人のメガネを使ってどこに置いたのか分からなくなってしまった事がありました。
    あちらこちら心当たりを探しても見つからないまま、主人の帰宅時間が近づいてきました。日頃から使った物は元の所に戻しておくようにとか、自分のメガネを使うように言われていましたので「また小言を言われる・・・。」そこでひらめいたのが、同じメガネを買いに行く事でした。幸い、100円均一で買ったもので大量生産、当然同じものが売っているだろうと。しかし何軒回っても同じ物は売っていませんでした。やっぱり、仏さまはご照覧。素直に謝りなさいと言って頂いているのだと思い、疲れて家に帰りました。すると、何度も試したはずの洗面所に落ちているのを見つけたのです。私が素直に主人に謝ろうと思えるまで仏様がマジックを使われたのだと思います。このことがあってから何か失敗をしたり、自分が間違ったと思った時には相手の方に出来るだけお詫びするようにさせて頂いています。

     

    ○楽しく仏道を歩む
     善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは
    事態を受け入れることができたのでしょう。
     私は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるもの
    ではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧なのだ」。そうした、悠々として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。

    「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮の台なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。
     法華経の「勧持品」に「我身命を愛せず 但無上道を惜む」という言葉があります。信仰者の強い
    意志を示す一節ですが、この言葉は、命さえ惜しくないという意味だけではないと思います。いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している

    場合ではない、生かし生かされあう縁に感謝することが大事なのだ、という意味にも受けとれます。

    「但無上道を惜む」は、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。

    〜中略〜

     先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。

    (佼成5月号より引用)


     信仰者仲間が善太郎さんをいきなり泥棒扱いしたのは、その娘が陰ひなたなく良く働きとても信用していたからかもしれませんし、善太郎さんが以前毛虫の悪太郎と呼ばれていたからかもしれません。

     私も、以前こうだったからと一度フィルターをかけて見てしまうとありのままを見られないことが々あります。それに草餅を貰って帰ったのも素直に謝罪した善太郎さんとの間にこれからも善き信仰仲間として溝を作りたくなかったからかもしれません。
    その娘もちょっと借りるだけのつもりで、とか又は已むに已まれぬ事情があったのかもしれません
    嘘をついたことでずっと胸を痛めていたと思います。そう考えると悪人は一人もいないということです。
    “いくら正しいからと言って相手をやり込めるのはつまらないこと”本当にその通りだと思います。
    やり込めただけでは相手に何も伝わりません。善太郎さんの行いは周りの人たちの仏性を引き出したんだなと思います。
     頭ではわかっていても、実生活の中ではまだまだ・・・。夫婦喧嘩は買ったらあかん、勝ったらあか
    ん。ある本のタイトルです。なるほどな〜と、私もそうありたいと思っていましたが、つい3日ほど前の事です。深夜に仕事から帰ってきた主人が玄関を開けるなり、怒鳴り散らしています。お昼に、もう一度買い物に出るつもりで車をガレージの真ん中に停めたままだった事を忘れていたのです。100%私が悪いと素直に直ぐに謝りましたが、ただでさえ長距離通勤で疲れているのに加えて私の車を移動させないと自分の車を停められなかった主人の怒りはおさまりません。次の日も責められてしまい本当に申し訳なかったと思っていた気持ちがだんだんと「悪いと思って何回もあやまったやん」とか「そんなにしつこくおこらなくても」とか相手を責める気持ちが起こってきました。後で支部長さんには「お試しやなぁ」と言って頂きましたがこの善太郎さんの「草餅説法」にふれていなければ言い返していたかもしれません。仏さまはご照覧、仏さまはに対する絶対的な「信」は善いことを淡々と続けていくなかに自然と湧き出るものなんだろうと感じさせて頂きました。

    揺るがない自信、そういうものを持てる私にならせて頂きたいです。

    合掌

     

    東近江支部 支部教務員

     

    (会長先生ご法話 佼成5月号より引用)

    当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。

     

     



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