3月「会長先生ご法話」に寄せて
今月の会長先生のご法話は「満足できる幸せ」です。
〇「欲をはなれると」
欲は自然のものですから、生きるうえでは必要なのです。ただ、必要以上に欲が深い人は、「あれがほしい」「これも自分の思うとおりにしたい」と私利私欲にとらわれるあまり、人への思いやりが二の次になりがちです。心が、「我」=「自分のこと」でいっぱいの状態だからです。
ところが、何ごとにつけ、ほどほどのところで満足できる人は、人のことを考えるゆとりもありますから、たとえば好物が手に入っても「一人で食べてはもったいない。人にも分けてあげよう」という気持ちが自然に湧いてきます。
〜中略〜
そうした人間らしい思慮や、他を思いやる気持ちが行動となってあらわれることを、脇祖さまは、「欲をはなれると徳がくる」といったのだと思います。それは、人間がもともともっている徳分が、自然に滲み出るということです。
(佼成3月号より引用)
私は3月の会長法話を拝読させて頂き、私がこの世に生を受け、幼少、青年、壮年、そして今あることに感謝し自分自身を振り返ることが出来ました。その時代、時折々でそれぞれに目的は違っていたものの欲深い自分の「我」と、ほどほどのところで満足していた「欲をはなれた」自分であった事に気づかせて頂きました。
幼少の頃は兄弟の中でも末っ子であったこともあって大概のわがままが許されました。ところが、同世代のお家との格差(衣食住)、家族構成の違いなど、その当時、同じように思うには限界があることをまだ理解していなかった私は、自分の「我」を通す行動を起こして、両親に辛い思いをさせていました。
その当時の事を思い出し法話の中から、人への思いやりが二の次になり心が、自分のことでいっぱいになっていることに気づかせて頂いたり、人間らしい、思慮や他を思いやる心を育てて頂いたと、様々な思いを振り返り両親に感謝の思いでいっぱいです。
今何故か人の笑顔を見る事が好きになり、自分にとっての生きがいはここにあることに気づき、今も、人の笑顔を求め人の意見を尊重することを優先する自分がここにいます。
「善きに計らえ」と、事あるごとに父親が私に言っていた口癖でしたが、この意味を深く理解していなかった自分でしたが、これを聞くと何故か落ち着き、気持ちの切り替えができていたように思います。
今年、教団八二周年を迎え、お役を通して自分を振り返ることができました。
〇「感謝こそ」
摩訶迦葉は「衣や食や寝床などに、いっさい文句をいわず、満足する者である」と伝えられています。
現代の私たちには、実践するのが難しいように思えますが、「何ごとに対しても、不足を口にしないで満足する」というのは、授かったものに感謝して、自分勝手な「よしあし」をいい立てないということです。それに、頭陀行をごく簡単に「小欲知足」と説明する文献もありますから、欲を少なくして足ることを知る生き方、与えられたものをできる限り素直に受け容れて、感謝のうちに暮らすことは、私たちが日ごろから心がける姿勢と重なるものです。
〜中略〜
生きていくなかで、授かったすべてに合掌する―そこに感謝と喜びがあり、ほんとうの満足と幸せがあるのです。
(佼成3月号より引用)
人間の大半は誰かに制御してもらわなければ、「我」を通し続けて行く生き物であるように思います。社会に出て「よしあし」を知り理解することで、その行き先々で触れるご縁に「感謝」させて頂く。「欲をはなれた」生き方を続けて行くと、これで良かったんだと「満足」する事が大切であり、今生かされていることに感謝と満足できている事をかみしめさせて頂きました。
感謝と受けとめられないときは「形」から入ることが大切と教えて頂き、全てに合掌するを実践させて頂き、「満足できる幸せ」を味わいたいと思います。
法華経の教えを日々学ばせて頂き修行精進させて頂きます。
合掌
湖北支部 壮年支部部長NY
(会長先生ご法話 佼成3月号より引用)
当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。
- 2020.03.01 Sunday
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- by rkkkinkishiga