8月「会長先生ご法話」に寄せて

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     今月の会長先生のご法話は自分の「宝」を輝かせるです。

     

    〇自信をもちにくい時代

     私は青年男子部長のお役を頂戴しています。部員さんの悩みを聞かせていただくと、様々なジャンルの悩みがありますが、やはり仕事で悩みを抱えている方が多いように感じます。会社の中で仕事が遅い・出世が遅い・上司に言われた通りにノルマがこなせないで叱られる…と言った内容が多いです。

     

     仏教では、人と比べる見方がものごとを見る目をいかに曇らせるかを教えています。仮に人をうらやむ気持ちが生まれても、それを必要以上の欲望や無益な憎しみに発展させないよう、心を制御(コントロール)することが大切なのです。

    (佼成8月号より引用)

     

    私もその通りだと思います。人と比べるから苦が生じ、争いが起こり、結果、自信が持てなくなります。神仏は何もそのように生きる事を望んではおられません。いかに自分自身が人生の課題に気付き、全うし、魂(心)を成長させるかにあると私は思います。

     

    〇仏性を輝かせる

    今振り返ると、私は生まれて20歳くらいまでは平々凡々と暮らしてきたような気がします。20歳から30歳の間に挫折するくらいの愛別離苦・怨憎会苦を体験しました。自分を責め、相手を責め、周りの人間、環境まで全てを責めた時期があります。

    それは会長先生のご法話の中にあるように

     自分が不幸なのは世の中のせいだとか、他人のせいだといった思いこみにとらわれると、成長の糧となるはずの劣等感が愚痴の種に止(とど)まり、向上心に結びつかないのではないでしょうか。

    (佼成8月号より引用)

    と教えていただいている通りだと思います。

     でも、この佼成会とのご縁があったおかげさまで苦が神仏のご加護と感じることが出来、沢山のご縁をいただき、自分の人生のお役目にも気付かせていただく事が出来ました。人を恨んで生きる事もなく、寧ろ前より一層有り難く生きる事が出来ています。これが私にとっての「宝」(仏性)が輝いたと言えます。

    会長先生が「すべての人が仏の子であり」と書かれています。そこに気付く事が、自信を持って仏性を輝かせる第一歩だと私は思います。

     

    部員さんに神仏の存在を感じていただき、自分は神仏に護られているという事に気付いていただけるように、お伝えしていきます。それが神仏からいただいた私の使命だと感じています。これから心が有り難く変容される、輝いた青年が増えるよう努力、精進させていただきます。

    合掌

    滋賀教会 北東ブロック男子部長

     

    (会長先生ご法話 佼成8月号より引用)

    当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。

     

     

     


    7月 「会長先生ご法話」に寄せて

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      7月「会長先生ご法話」に寄せて

       

      「自由自在に」生きる

      いつもブログを読んでくださりありがとうございます。

      ようやく梅雨入りが発表されたと同時に、台風の接近も発表され、被害が少しでも小さいように願うばかりです。

       

      ほんとうの「自由」と「自在」

      私たちは、自分の思うままに行動できることを「自由」といい、それが「自在」な生き方だと思っています。そして、多くの人が「自由自在に生きられたら、どれほど幸せだろう」と考えます。別の見方をすれば、私たちが日ごろ、いかに不自由や不満を感じているかということです。

      ただ、ある意味でそれは当然のことです。自分の思いどおりにできることが「自由」だと思っていると、ままならない現実にぶつかるたびに不足や不満、苛立ちや苦しみを覚え、不自由な思いが募るからです。これは、「自由」を求めながら、逆に自ら不自由を招いているといえますが、不自由を感じるようなときこそ、ほんとうの意味の「自由」で「自在」な生き方を身につけるいい機会かもしれません。(佼成月号より引用)

       

      南西ブロック女子部長というお役を頂いて10ヵ月が経ちました。私は仕事の都合上、教会へは平日に行くことがほとんどです。お役を頂いて間もない頃「平日に来られるときだけでも来てくれると、教会の雰囲気も明るくなるし、青年部さん頑張ってはるな〜って思ってくれはるよ」と言って頂いたことがきっかけで、可能な限り週に一度は教会へ行き、青年部活動の準備をするようになりました。同世代の部員さんと自分を比較し、不自由さを感じることもありますが、青年部活動を通し、たくさんの方と関りを持たせて頂く中で、仲間を思いやり、共に向上を目指すことのなかに「自由」があり「自在」があるのだと学ばせて頂きました。

       

      「三界は我が有なり」の気持ちで

      たとえばいま、目の前に、おにぎりが二つあるとします。あなたに与えられたものです。ところが、まわりにはあなたと同じくらいお腹を空かせた人が四人もいます。

      「諸苦の所因は 貪欲これ本なり」と経典にありますが、もらったあなたが自分一人で食べたいと思う気持ち(貪り)も、もらえなかった人たちがそれを恨んだり妬んだりする感情(瞋り)も苦悩の一つです。だからといって、足りないぶんのおにぎりを仏にプレゼントしてもらうのが「智慧の楽」ではないでしょう。そうではなくて、その不足がもたらす苦悩を、自他の向上につながる楽しみや喜びとして受けとめるようになるのが「智慧の楽」ということです。

      自由ということでいえば、私たちにはつらいできごとを「前向きにとらえる自由」も与えられているといういい方もできます。苦しいときでも、それをまるごと受けとめて、目の前にある小さな幸せをかみしめたり、喜びを人と分かちあったりすることで、苦悩を楽しみに変えていく―それが、ほんとうに「自由自在」な生き方だと思います。(佼成月号より引用)

       

      先月、青年部のスタッフさんが行事の準備をしに教会へ行かれた際に怪我を負い1ヵ月入院されることになりました。入院されている間、他のスタッフで不在を補ってはいましたが、本部への提出書類や支部長さん方への確認事項、その他普段やってくださっていること等、私の知らないことがたくさんありました。そういうお役だからと言えばそうなのですが、青年部のスタッフさんは会社でも中堅と呼ばれる立場の方がほとんどです。頂いたお役を責任もってさせて頂くことも大切なことではありますが、部員さんの悩みや苦しみを聞かせて頂くだけでなくスタッフ間でも悩みや苦しみを分かち合い、助け合い、一緒に向上を目指すことが大切なのだと気づかせて頂きました。

       今月学ばせて頂いたことを胸に刻み、青年部一丸となって、8月の知覧(鹿児島)平和学習に臨ませていただきます。

      2つのおにぎり、私なら、全員で笑顔で分け合います。

      あなたならどのようにされますでしょうか。

      合掌 

              南西ブロック女子部長


      (会長先生ご法話 佼成7月号より引用)

      当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。

       


      6月 「会長先生ご法話」に寄せて

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        6月「会長先生ご法話」に寄せて

         

        『仏の教えを習い、学ぶ』

         

        田植えも終り、緑のジュータンが敷かれたような、目にさわやかな風景が広がっています。

        その隣で、小麦が黄色く色づき、これからの収穫の時期を待っています。

        その自然の織り成す風景を楽しみながら6月も元気に精進させて頂きます。

         

        「習学」は日常のなかに

        「諸仏の法是の如く 万億の方便を以て 宜しきに随って法を説きたもう 其の習学せざる者は 此れを暁了すること能わじ」。仏は、たくさんの手だてを使って、常にそれぞれの人にふさわしい法を説いているのですが、「習学せざる者」は、そのことに気づくことができないというのです。逆にいうと、「習学」をすれば、いつでも、そのとき自分に必要なお諭しに気づけるということです。

        (佼成6月号より引用)

         

         私は文書布教部のお役を頂き、毎日教会に来させて頂いています。朝の9時のご供養に入らせて頂いていますが、ご供養後の「教会法座」に座って自分のことを話したり、また発表される方の話をじっくり聞くことはありませんでした。一刻を争うような悩みもなかったこともあり、毎日起こってくる小さな事は“まぁいいか” と置き去りにしていた私でした。今月の会長先生のご法話を拝読させて頂き、私自身たくさんの習学するチャンスを逃していたのだと気づかせて頂きました。これからは「教会法座」に入らせて頂き学びを深めて行きたいと思います。

         

        実践してこそ「習学」

         日々、私たちの周囲で起こるできごとは、仏が「万憶の方便」を駆使して説く法にほかなりません。受けとめようとする心があれば、だれでもそれに気づくことができます。

        ただ、「習学」は知識を得るものというよりも、実践を繰り返すなかで「仏の教えにそった生き方を身につけていく」ものです。

        (佼成6月号より引用)

         

         先日、年回供養のお導師のお役を頂きました。供養させて頂いた方は、奥さんの実父、継母、夫の両親と兄弟の5人の方です。奥さんは自分の母親が産みの親でないことを、小学4年生ぐらいで知り、厳しく育てる継母に反感をもって育ったそうです。教会で法華経のお勉強を学ぶご縁を頂き繰り返し、繰り返し学びを深める中で、継母と心を通い合わせることが出来「亡くなるまで献身的な介護が出来ました」と嬉しそうに話して下さいました。

        年回供養のお役を頂いたおかげさまで、仏さまの教えにそった生き方を実践し繰り返し習学することの大切さを学ばせて頂きました。

         

        合掌 

                文書布教部部長


        (会長先生ご法話 佼成7月号より引用)

        当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


        5月「会長先生ご法話」に寄せて

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           新元号(令和)を迎える5月にブログのお役を頂き、ありがとうございます。新しい時代に平和で穏やかな日々が送れることを願います。

           今月号の会長先生のご法話 「なぜ、苦しみが絶えないのか」を拝読し、読み書きが苦手な私にとって、ブログのお役を頂いたことはまさに四苦八苦することです。

           

          〇「苦」と「苦しみ」の違い

           釈尊はしかし、この「苦」を、いま私たちが一般的に使う「苦しく、つらいこと」という意味で示されたわけではなさそうです。「苦」の語源は「思いどおりにならないこと」を意味する「ドゥッカ」という言葉ですから、先の八苦はどれも、「自分にはどうすることもできないこと」を示しています。ところが、それを「なんとかしたい」と望み、そのことにとらわれて諦めきれないと、心に「いやだ」とか「つらい」といった感情が起こってきます。そのとき「苦」は、身心を苛(さいな)む「苦しみ」に変わるのです。

          (佼成5月号より引用)

           

           満開の桜をながめていたのもつかの間、私にとって忙しい一年が又、始まりました。

           好きで始めた稲作。楽しみでもあり、苦しみの原因でもあります。年々面積が増え、仕事との両立、教会では壮年部長のお役を頂き、その合間をぬいながらなので、とても私一人ではまかなえるものではありません。

           家族はもちろん、周りの方々の応援がなければできないことです。肌寒い4月2日の夜、私、妻、長男夫婦、長女、次男夫婦、孫の8名で播種作業を始めました。ボンボリのついた桜を農舎からながめながら、あーでもないこーでもないと楽しく色々な話をしながら作業をしました。途中、機械の調子が悪くなるというアクシデントもあり、夜中の0時までかかりましたが、みんなで助け合うことで苦が楽しみになり、それが喜びにかわり、幸せを感じる時間でもありました。

           

           

          〇「苦」は「智慧」の湧く泉

           「苦」から逃げずに、それをそのまま受け入れる覚悟ができると、その「苦」は「智慧」の湧き出る泉ともなります。私たちが本来もっている「智慧」がはたらきだすには「苦」が必要だったと受けとれば、「苦」は楽しみに向かう大切な道しるべとなり、その「苦」も抜き去られるのです。

           これが、「苦」があっても苦しまない生き方といえるでしょう。そしてそのことを、仏教では四諦の法門など数々の教えで伝えています。ただ、それらを学んでも、私たちはいざ苦に出会うと悩み苦しむのですが、それでもいいと思うのです。苦しい思いをしなければ、仏さまの教えという「幸せにつながる道」を歩んでいないかもしれないのですから。

          (佼成5月号より引用)

           

           しかし、「苦」はまたすぐにやってきます。平日は仕事、土日や夜は教会のお役があったりで、「いったい私はいつ田んぼを耕し、植えることができるのか」次なる悩みがやってきます。そして、自分の思い通りにならないことにイライラを募らせます。周りからも「いつ植えるのか、予定がたたない」と言われるとイライラが今度は怒りに変わるのです。

           そこに、救いの手を差しのべてくれるのが長女です。みんなの予定を聞いて、「この日とこの日は人数が大勢集まるからあそこの田んぼを植えて、この日は2人しかいないから2人でできる田んぼにしよう」と段取りをしてくれ一晩で問題が解決するのです。悩んでいたことがスッキリとし、私の体にスイッチが入り、イライラと怒りがスーッと消えていきます。娘のやさしさに気づくとともに、私一人が頑張っているように思っていたのですが、娘の段取りはまさに智慧を下さる仏さまです。

           現在、家族のほかに草刈りをして下さるスタッフ7名がいて下さり、感謝させて頂きながら、悩み苦しむ百姓ではありますが、幸せにつながる道しるべになり、その道を歩かせて頂いていることを実感し、今日も仕事帰りトラクターに楽しく乗っている私です。

                                           合掌

                                    滋賀教会 壮年部長

          (会長先生ご法話  佼成5月号より引用)

          当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


          4月「会長先生ご法話」に寄せて

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             今年も早や、桜咲く四月 お釈迦様の生誕を祝う「降誕会」の月、そして、社会人、学生さんも新しいスタート月 自然界の草花が開花し、私達も心軽やかに、心を開花させたいものです。

             今月の会長ご法話は、香る風のような人に」です。

             

            ○心に香風が吹きわたる

             

             その喜びにも通じる言葉が、法華経の「序品」にあります。「栴檀の香風 衆の心を悦可す」 この一節を開祖さまは「仏さまの香風が衆生の心の中に入ってくると大歓喜が生じる」と、簡潔に説明しています。

             仏の教えに出会えた私たちは、その教えを聞き、学び、実践していくなかで、数々の気づきを得ます。いやだと思っていた人やものごとに感謝ができるようになったり、それまで幸せだと感じていたことは自己中心の思いにすぎなかったと気づいたりして、生き方が変わるのです。

            (佼成4月号より引用)

             

             私も、この教えに出会えてなかったら、お役を頂いていなかったら、人を恨んだり、軽蔑したり、落ち込んだりしている日々を過ごしていたと思います。

             お陰様で、生き方が変わりました、本当に感謝で口では言い表せないくらい、有難い日々を送らせて頂いています。

             

             ○みんな「徳のある人」

             

             法句経に「徳のある人びとの香りは風に逆らっても進んでいく」「徳のある人はすべての方向に香る」とあるように、人の心を「悦可」するには「徳分」が必要という見方もできそうです。よく「私には徳がない」とか「あの人には徳がある」といったりしますが、修養や善行の積み重ねが「徳分」を身につける決め手なのかもしれません。

            (佼成4月号より引用)

             でも、会長先生は、私は、そういいきれないとも思うのです。と、ご指導頂いてます。

             

             私たちがいま、この世に一つの命を授かって生きているというのは、大自然の徳はもちろん、先祖や親の徳をいただいているからです。一人ひとりが、すでに豊かな徳を具えているということです。ですから、私たちは自らの「徳分」に気づけばいいだけです。気づいて、それを成長させれば、だれもが香風を運ぶ「徳のある人」になるのです。

             そこで大切なのは「有り難い」という気持ちです。なにごとにも感謝を忘れない素直で謙虚な人には、自然に人が引き寄せられます。

            (佼成4月号より引用)

             

             私たちは90%目に見えないものに、生かされているのに、あとの10%の現象世界にバタバタしているのだと聞かされたことがあります。私も、この教えのお陰さまで、幸せになる秘訣を教えて頂けました。幸せは独りでは味わうことはできないのです。

             この生かされているいのちを、この世に生きるすべての人とともに、人さまのためにどう使わして頂くか。

             今月お釈迦さまのお誕生をお祝いし、自分の誕生の不思議さを味わって、この生かされているいのちを輝かせるのも、曇らせるも自分次第だと受け取らして頂きました。

             いつも 未熟で愚かな存在と自覚して いのち いっぱい 生きて 大きな花を咲かせたいです。

            世界が平和になりますように。

                            合掌

                       滋賀教会 渉外部長

            (会長先生ご法話 佼成4月号より引用)

            当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。

                            


            3月「会長先生ご法話」に寄せて

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              今月の会長先生ご法話は 自他の幸せを願う心」です。

               

              「仏の子」だからこそ

              私たちはみな、だれもが、自分や家族の幸せを願っています。

              そして、同時に他人の幸せを願う心も、私たちは持ち合わせています。

              (佼成3月号より引用)

               

               5歳の娘が嬉しそうに、お友達が元気になって幼稚園に来てくれたことを話してくれます。お休みしていたお友達を想う娘の優しい心に「自他の幸せを願う心」を感じています。

               

              生きた経典として

              たとえ自分はまだまだ未熟でも、仏の教えが真理にかなっているからです。

              (佼成3月号より引用)

               

               わたしは上手く伝えられないからと・・ためらってしまう事があります。でも先日、友人に初めて佼成会の事を話した時、相手を大切に想う気持ちが伝わったように思いました。また、お伝えすることによって、自分が仏さまの教えや仲間に出逢えた喜びにあらためて気付くことも出来ました。相手の想いを聴かせてもらう、自分の気付きや感動を素直にお伝えすることで、相手の心にあたたかく寄り添える私になりたいと思います。

               

                         合掌 滋賀教会 婦人部長

                  当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


              2月「会長先生ご法話」に寄せて

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                2月「会長先生ご法話」に寄せて

                 

                 新年を迎えたかと思うと、もう2月です。年を重ねるごとに、一年が早く過ぎていきます。ですから、なおさらのこと一日一日を大切にしていきたいと思います。

                 

                 今月の会長先生ご法話は 人を思いやる「心の習慣」です。

                 

                〇得は徳に通じる

                 街のなかで困っている様子の人を見かけたとき、みなさんはどうされるでしょうか。そばに寄って声をかける人も多いと思いますが、気にかけながらも、よけいなお世話かもしれないと近づくのをためらう人もいることでしょう。

                (佼成2月号より引用)

                 

                 私は小学生のころから父からよく「互護の精神」が大切やと教えられてきました。「バスに乗ってお年寄りの人とか乗ってこられたら、ゆずってあげるんや。一人占めしたらあかん。」と、今でもその時の様子を覚えています。我が子にも教えてきました。

                 

                 最近では、トラブルに巻き込まれるかもしれないという懸念もあって、見ず知らずの人に声をかけるのは、確かに一文の得にもならないという見方もできます。しかし、ほんとうにそれは得にならないのでしょうか。

                 損得の「得」は道徳の「徳」に通じる、といわれます。一文の得にもならないと思われることであっても、人さまを思うがゆえの実践は、それを行う人の徳分として、人間的な成長など尊い心の財産になります。

                 ただ、そのことがわかっていても、困っている人を見て「なんとかしてあげたい」と願う気持ちを実際の行動に移す、その一歩を踏み出す勇気が出ない人もいます。

                (佼成2月号より引用)

                 

                 会長先生は私の心もよく理解していただいています。ニュースとか見ていて助けに入って亡くなった事を見たり聞いたりするとおじけづいてしまいます。でも会長先生は教えてくださいます。

                 

                 「目の前の人を憐れみ、思いやりの心を奮い立たせて『苦しみから救い出そう』と決心しなさい」と教える一節です。そしてそのためには「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極めるよう精進することが大切です」と説かれています。

                 要するに、損得勘定を捨てられない私たちでも、精進によって欲得ずくの心を超えることができ、それが心の習慣になれば、どのようなときでも損得勘定に惑わされずに、人を思いやる気持ちを自然に行動にあらわせるということです。

                (佼成2月号より引用)

                 

                 まず真剣に相手のことを思い、こう思われたらどうしよう、などと自分をかばうのではなく、常日頃の心のもち方を正していけば、いざという時自然と身体が動いていくのですね。

                 

                 

                〇すべては一つ

                 「自分本位のとらわれや執着を離れて、ものごとの真実を見極める」というのは、この母親のように、自分と相手を一つと見ることです。さらに、すべてを一つと見れば、人の喜びや悲しみがよくわかり、そうしてわきあがる憐れみの心や慈悲の心に突き動かされて、思いやりを行動に移せるのです。「すべては一つ」という見方によって、思いやりが「心の習慣」になるということです。

                 相手と一つになれば、慈悲をしているといった意識もしないまま、その思いやりがお互いの喜びや心の成長に結ばれていくのです。

                (佼成2月号より引用)

                 

                 なかなか相手と一つになれず、特に主人とは私は私、あなたはあなた、あなたは自分のこと中心でまわりのことは思っていないと、さす心ばかりです。でもそんなことばかり言っていられませんね。人生の終盤をむかえるにあたり、真剣に「相手と一つになる」精進をさせて頂きます。

                ありがとうございました。

                             合掌

                        滋賀教会 少年部長

                 

                    (会長先生ご法話 佼成2月号より引用)

                当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


                新年のご挨拶

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                   皆さま、明けましておめでとうございます。

                   昨年は教団創立八十周年の記念すべき節目の年を、滋賀教会の皆様と迎えることができました。誠にありがとうございます。今年からはいよいよ創立百年に向け歩み始める年、そして滋賀教会発足五十五周年の節目の年を迎えました。そのような意義ある年に会長先生から次のような信行方針を頂戴しました。

                   

                  天地自然は、一瞬もとどまることなく、創造、変化を繰り返しています。私たちもまた、天地の道理の如く、停滞することなく、何事に対しても、日々新たな気持ちで取り組んでいくことが大切であります。

                  今年、本会は創立八十一周年を迎えました。その今日に及ぶ歴史の礎は、開祖さま、脇祖さまをはじめ、先輩の幹部の皆様、信者さんの寝食を惜しまぬご尽力によって築かれてきたものです。

                  私たちは今後、教団創立百年に向けて、一人ひとりが、創造的な歩みを進める確たる志をもって、そのご恩に報いてまいりたいと思います。

                  2019年次布教計画書より引用)

                   

                  年頭法話の中で、会長先生はこの信行方針に触れ、一人ひとりが、創造的な歩みを進める確たる志を持つことの「創造的な歩み」について次のように教えてくださっております。

                   

                  この年次方針の中に「創造的な歩み」という言葉があります。これは、単に「新しいものをつくり出す」という意味ではありません。

                  仏教は、勝ち・負け、成功・失敗、新しい・古いといった見方を超えた普遍的な価値を大事にします。つまり、人間の営みに真に力を与えるのは、いつの時代も、明るい心、優しい心、温かい心であります。それを一人ひとりが、家庭、学校、職場、地域、また世界で、惜しむことなく、そして今までの自分から一歩踏み出して表現するのが、本当の意味の「創造的な歩み」であると思います。

                  そうした根本を忘れることなく、それぞれの個性をいかして、身近な実践に結びつけてまいりましょう。

                  (佼成新聞201916日号より引用)

                   

                  この「創造的な歩み」をそれぞれの場で具体的に、私たちの日々の実践へと後押ししてくださるご法話が、佼成1月号の会長法話『みんな善の根っこをもっている』であると思います。

                  それでは年頭法話にある、仏教の普遍的な価値、明るい心、優しい心、温かい心とはどのような心でしょうか。そのことに対して会長先生が次のようにお示しくださっています。

                   

                  『みんな善の根っこをもっている』

                   

                  ○乾いた根に潤いを与える

                  私たちが読誦(どくじゅ)する法華三部経のなかの無量義経に、「衆生の諸有(しょう)の善根(ぜんごん)を潤漬(にんし)し」(徳行品)とあります。善根とは、善い果報をもたらす土台となる根っこのことですが、「だれにも仏と同じ性質が具わり、みんな仏のあらわれである」ということを示す「仏性」と同じ意味あいと、私は受けとめています。ですから、だれもが善根をもっているといえるのです。ただ、その根っこが健やかに育ち、伸びるには、乾いた根に活力を与える潤いが欠かせません。

                  (佼成1月号より引用)

                   

                  私たちは誰もが、善根(仏性)を持っていると教えて頂きます。しかし、そのように教えて頂いていても、意識をしないとすぐに忘れて自分中心の心が湧いてきます。

                  年末、家族が待つ自宅に戻りました。三人の子ども達はそれぞれの予定で動いています。妻孝行をしようと思い、リビングを掃除しておりました。子どもがお昼近くに起きてきて、遅い朝食をリビングで食べ始めました。ホコリがたつだろうとリビングの掃除を止め、隣の和室の拭き掃除をしていました。昼食後、再びリビングのフローリングの拭き掃除をしていました。すると今度は、先程の子どもが遅い昼食をリビングで食べはじめ、年末の特番を見て大笑い。子どもは食後、食器を流しに置くだけで部屋に戻っていきました。「昼食後の洗い物は終わっている。この時間になったのだから自分で洗えばいいのに」と一言言いたくなる自分を抑えましたが、勝手にイライラする私がいました。身内に対しては、自分の思い通りにならないと、善根(仏性)を持っていることを忘れ、「仕方のない奴」と否定してしまう自分を、このブログ原稿を書くことで振り返ることができました。

                  それでは、その「善根」に潤いを与えていくには何を大切にしていけばいいのでしょうか。

                   

                   

                  ○ほんとうの「正定聚」に

                   無量義経の一節は、先の「善根を潤漬し」のあと、「善の種子(しゅじ)を布(し)いて功徳(くどく)の田(でん)に遍じ」と続きます。「世のため人のために尽くす行為の本(もと)になる、善の種子をたくさん播こう」―要するに、「仏の教えを伝えて、自分も人も一緒に幸せになろう」と、「布教伝道」を説いているのです。

                   「善の種子を播く」というのは、多くの人の乾いた善根に潤いを与えることと同じだと思いますが、では、なぜここで「布教伝道」が説かれるのかといえば、理由は一つです。

                   前述した若者のように、仏の教えを聞いて心の根が潤い、迷いの淵から抜けだしたあとには、「ほかの人も、自分と同じように苦悩から離れ、目の前の幸せに気づいてほしい」という慈悲の心が、とめどなくわきあがるからです。

                   では、その「布教伝道」のあり方はというと、悩み苦しんでいた先の若者も、初めから素直に仏の教えが受け入れられたわけではないでしょう。その意味で、私たちにとって大切なのは、まず「身近な人の善き縁になろう」と願って生きることです。人を思いやるやさしい言葉や態度が、苦しむ人の乾いた心の根に潤いを与えるのですから。

                   そのうえで、私たちは読経供養や仏さまの教えの習学など日々の基本信行を実践しつつ、仏教に縁のない人の手をとっていく。それが、先の経文の結びとなる「普(あまね)く一切をして菩提の萌(め)を発(おこ)さしむ」(あらゆる人に仏の悟りを目ざす心を起こさせる)という最高の生き方につながるのです。

                  (佼成1月号より引用)

                   

                   善根に潤いを与えていくには、相手を変えようとするのではなく、まず「身近な人の善き縁になろう」と願って、相手を思いやるやさしい言葉や態度が大切なのだと教えて頂きました。そして、自分から法を実践し、身近な人から法を伝えていく、布教伝道していくことの大切さも教えて頂きました。 

                   

                  私自身、自らが菩薩としての自覚に立ち、一人ひとりに具わった可能性を信じ、目の前の方に喜んでもらえる存在になりたいと思います。

                  滋賀教会としては、教会発足55周年を迎えるこの年、あらためて礎を築いてくださった先輩の幹部の皆さま、そして支えてくださったご家族の皆さま、信者さんの寝食を惜しまぬご尽力に感謝を深めさせて頂きます。また、開祖さまが何度もお示しくださった「一人が一人を導く」ことを合言葉に、布教伝道に「GOGO(ゴーゴー)」と取り組んでいきたいと思います。さらに、人材育成(人を植える)ということに全力を注ぎ、創造的な歩みができるように工夫を凝らし、心を合わせ精進していきたいと思います。滋賀教会の皆さまと共に、救いを求めるすべての人にとって、いつでも心安らぐ「正定聚」(みんなが「仏さまのようになりたい」と決意した仲間)でありたいと思います。

                  今年一年どうぞよろしくお願い申し上げます。

                  合掌

                    立正佼成会滋賀教会 教会長 後藤益巳

                   

                  当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


                  12月「会長先生ご法話」に寄せて

                  0

                    今年も最後の月を迎え、又12月からは佼成会ではスタートの月でもあります。

                     

                    今月の会長先生のご法話は使命にめざめるです。

                     

                    <道を楽しむ人に>

                     

                    「正定」とは、心が常に仏の教えに安住していて、周囲の変化によって動揺しないここと受けとめられますが、たとえ貧しくても悲観せず、そこにある幸せを精いっぱい感受する橘曙覧のような心も、「正定」の一つでもありましょう。

                     なにごとも楽しいと受けとめる―そういうものの見方を心がけていると、気持ちが楽になって、目先の苦に迷うことのない、ほんとうに安楽な人生を歩めるのです。

                    (佼成12月号より引用)

                     

                    子どもが小さい時、私は何事も楽しいと受け止めることが出来ず、そこにある幸せを感じるより、自分に合わせてほしい思いが強く、子どもの声を聞いてあげる心がない時期がありました。

                     ご法話を通して周囲の変化に動揺して、子どもの思いを受け止めていなかった日々を振り返ることが出来ました。

                     

                    <願いをもって>

                     

                    いわば、「八正道」の各徳目は、いずれも私たちが「真理に止まる」ための実践であり、その基本となるのが初めにおかれた「正見」といえます。

                     仏さまのように、ものごとをありのまま見ること(正見)によって、静寂で澄みきった心(正定)を得る―それは「あの人の苦しみを除いてあげたい」「この人が慈悲の心を得るお手伝いができたらいいな」といった、菩薩としての願いをもって生きるということでもあるのです。

                    (佼成12月号より引用)

                     

                     私は育てて頂いた父が病気で痛みと向き合い、それをそばで共にして来た中で、ものごとをありのまま見ることが辛く、でも一方では苦しみを除いてあげたいと願う心もありました。常に一瞬で変化していく自分を毎日味わい、自分をよくわからせて頂きました。今一度新たな日常生活の暮らしの中で、ふと省みて、立ち返る習慣を大切にしていきたいと思いました。

                    合掌

                    滋賀教会 竜王支部長

                     

                    (会長先生ご法話  佼成12月号より引用)

                    当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。

                     

                     

                     


                    11月「会長先生ご法話」に寄せて

                    0
                      今年も残すところ2ヶ月、皆さんは、どんな一年でしたか?
                      特に今月は開祖さまの生誕会の月。どれだけご恩返しができたでしょうか。
                       
                      今月の会長先生のご法話は、
                      「『思いやり』を、いつも心に」です。 
                      どれだけの人を思いやったり、心配したりすることができたでしょうか。
                      「安楽」なときが「正しい」とき
                      心が安らかで楽しいとき、たとえそれが温泉につかっているときであっても、私たちは、思い煩いや恨みつらみといった感情を離れているのではないでしょうか。
                      迷いやとらわれが心からするりとほどけ、何にも縛られない、安らかでのびのびとした自分がそこにいます。
                      そこで、私なりに理解するところでいうと、先にお話ししたような「心がほどけ、安らかで楽しいとき」こそ、心が正しい方向にあるといえると思うのです。
                      しかし、一瞬やひとときではなく、心を「常に」正しい方向に向けるとなると、話がまた少し難しくなります。
                      (佼成11月号より引用)
                       
                      「救ってあげられたら」と願うだけで

                      朝夕の読経を習慣とし、「慈悲、思いやりの心をもって生きよう」と願うことだというのです。

                      これは、常に心安らかで楽しく生きるための大きなヒントであり、私たちにとっては思いのほか身近な実践といえるのではないでしょうか。

                      しかも、「思いやりをもちなさい」という命令形ではなくて、「思いやりをもって生きようと願うことが大切」というのも受け入れやすいところです。

                      ときおり、「慈悲がなかなか身につかない」と嘆く人がいます。
                      しかし、その人はまさに「思いやりをもって生きよう」「あの人を救ってあげられたら」と願っているからこそ、そのことで思い悩むのでしょう。つまり、その人はもうすでに、思いやりの心が身についているのです。
                      (佼成11月号より引用)
                       
                      私は現在、毎日100名以上の方と出会いを持たせて頂く仕事をさせて頂いています。そして、お越し頂いたお一人お一人のお客様が「良かった是非もう一度、来たいわ」と言って頂く様に、日々笑顔で出会いを大切にさせて頂いております。
                      でも、いろんなお客様がおられます。すべての方に心からの思いやり、感謝の言葉が出れば良いのですが、お酒を呑み過ぎた方、大声を出される方のご縁に触れると、なかなか・・・・・・・・
                      更に、同じ従業員の仕事ぶりを責めたり、どうして、こんな事が出来ないのと激怒している自分があります。
                      でも、教えを頂いているお蔭様で、そんな自分に気づかせて頂ける日々を送らせて頂いています。
                      本年は自分にとっても区切りの年、青年部時代からずっとお役を頂き50年、現在 教会渉外部長のお役を頂いております。
                      いま目の前にいる人が、自分を成長させてくださる人だと、心から思えるように、修行精進をさせて頂きます。
                                                   合掌
                                   滋賀教会 渉外部長
                       
                                     (会長先生ご法話  佼成11月号より引用)
                      当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


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