10月「会長先生ご法話」に寄せて

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    まだまだ不安はありますが、最近では新型コロナウイルスと共存していく生活を受け入れつつあります。

    そんな私達の心とは別に季節はめぐり、肌にふれる風にも秋を感じる毎日です。

     

     

     10月の会長先生のご法話は「心が変われば、生き方が変わる」です。

     

    〇みんな同じ仏の弟子

    「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」(ウィリアム・ジェームズ)という、人間の本質をついた名言があります。まるで、先の話を参考にしたかのような言葉ですが、心が変われば生き方が変わり、それは運命、すなわち「めぐりあわせ」も変えるというのです。(中略)

    ですから、目先の欲に流されないとか、感情にまかせて怒らないとか、ものごとの変化をありのまま受けとめるなど、人により、場合によって「心の塵」の払い方はいろいろあると思いますが、仏の教えを素直に信じて、行じていけば、おのずと運命が変わっていくのだと思います。佼成10月号より引用

     

     

    日頃、日常生活を送る中で自分にとって不都合な事が出てくると、つい相手のせいにしたり、腹を立てたりして、悩みや苦しみのもとをつくっています。

    そんな時にこそ、ひと息おいて仏さまの教えに心を寄せて、行じていくと、その不都合と思っていたことが、実は自分の心のくせや、生き方を変えて下さる宝なのだと思いました。

     

     

     

    〇「信じる」ということ

    開祖さまは、「信仰は、ただやみくもに信ずるというのではなく、真理にめざめて信ずる」ことだといっています。つまり、ただ信じればいいのが信仰ではなくて、諸行無常や諸法無我、縁起の教えといった「真理(真実の道理)・仏法」を学んだら、それに照らしてものごとを見たり考えたりするという、「智慧」に根ざした生活を送ることが、「仏の教えを信じる」ことであり、「信仰」なのです。

    ちなみに「信心」というのは、私たち人間が仏と同じものを具えていることを「信じる心」のことです。ですから、仏を信じる、釈尊を信じるというのは、人間そのものを信じ、まわりの人の仏性を素直に信じることを意味します。

    そのように考えると、教えを信じて行じることの基本は、いまの目の前にいる人を信じて尊ぶことに尽きる、といえるのではないのでしょうか。佼成10月号より引用

     

     

    私は最近ご供養の後に、庭野日敬 平成法話集「我汝を軽しめず」のご著書を拝読させてもらっています。先日Aさんとの電話のやり取りの中で地区のことでお互いが思いを主張し、すっきりしないまま電話を切りました。何でわかってくれないのだろうと相手を責める気持ちが湧いてきました。が、その日に拝読したご著書の中に「平らな心は感謝から」というお言葉が思いうかびました。

    今の私は、自分本位に考えている。Aさんに対して感謝もないなと思いました。すると、少しずつAさんの良いところが見えてきました。そして、電話ではなく、Aさんに会いに行くと、Aさんから返ってきた言葉は、私の思いを受けとめて下さっている言葉でした。

    私は、驚きと共に両方がお互いの事を解ろうとしていたことを感じました。

     

     

    だれもが仏と同じいのちを生きる仏性のあらわれなのだ、ということが腑に落ちると、人との接し方や言葉の受けとめ方が変わらないでしょうか。佼成10月号より引用

     

    目の前にいる人を、尊び、一人ひとりを大切にしていけるよう精進させて頂きます。

     

                                          合掌

                                日野支部  M

     

    (太字は会長先生ご法話 佼成10月号より引用)

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    9月「会長先生ご法話」に寄せて

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      今月の会長先生のご法話は「ともに悲しむ心」です。


      ○人の悲しみを悲しむ心情
      福島の高校で国語の教師をつとめるかたわら、詩人としても活躍する和合亮一さんの、「ともに」という詩です。
      「あなたの涙が/わたしに/教えてくれたこと/人は弱い/人は悲しい/人は切ない/だけど/ぬくもりがある/人は人を想う/人は人を愛する/人は人に涙する/あなたも/わたしも/さびしい/だけど/あなたも/わたしも/共に/生きている」
      (『十万光年の詩』佼成出版社刊)
       つらい経験をして悲嘆にくれる人に出会ったとき、私たちはこの詩のように、相手を思い、ときにはともに涙したり、手をとって「いつでもそばにいますよ」と励ましたりします。それは、私たちが人の苦しみに共感して、ともに悲しむことができるという、他の動物にはない懐しい心情をもつ人間として生まれたからです。

      (佼成9月号より引用)

       

      私は今まで色んな苦しみや悲しみを体験してきました。苦しすぎて途方に暮れた事もありました。でも、そんな時一緒に泣いてくれた友達がいました。
      頑張りを認めてくださった方とも出会いました。そしてサンガの仲間はご法に照らし合わせて悲しみから救ってくださいました。
      そんな多くの方の支えのお陰様で、私は前を向いて進む事ができました。
      だから友達が悩んでいると、私はその友達の悲しみを自分の悲しみとして受け止め、一緒に頑張ろう!と励ます事ができました。
      自分が苦しんだ分、人の悲しみがわかり、共に悲しみ、励ます事ができるようになった事、それも私の仏性なんだと気が付かせて頂きました。

       

      ○自他の仏性が輝くように
       九月のいまごろのことを、暦のうえでは「白露」といいます。朝の草花に宿った露が、日光をあびて輝くさまのことですが、露には「露の世」という言葉に見られるように、はかない印象もあります。しかし先の一句は、露のようにはかなく思える無常の世にあっても、「悲しみにくれる人がいないように」「だれもが仏性に目ざめて救われるように」と願う、仏の切なる思いを伝えているのです。それはまた、菩薩として人に寄り添う生き方を私たちに示します。

      (佼成9月号より引用)

       

      お盆に実家に帰ると仏壇には色とりどりのお花、手作りのお供えものがたくさんお供えしてありました。
      亡き祖母もきっと喜んでくれていると思います。
      そして、母が私達の為に作ってくれた机いっぱいの手料理。両親の笑顔。
      とても楽しく幸せな時間を過ごす事ができました。
      両親とは、うまくいかなかった時期もありました。でも、父は私の手を離しませんでした。母は、陰ながら私を応援していてくれました。そんな両親の仏性に気がついた時、両親の存在に感謝できるようになりました。
      私が元気で前を向いて頑張っていく事が、両親への恩返しになると思い、自分の仏性を大切に精一杯生きていこうと思えるようになりました。

      コロナ禍で当たり前の事が当たり前にできない今だからこそ、ひとつひとつを丁寧に、目の前の人に喜んでもらえるよう、明るく、優しく、温かい私になれるよう精進させて頂きます。合掌

      竜王支部 T.I

       

      (太字は会長先生ご法話 佼成9月号より引用)

      当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


      8月 会長先生のご法話に寄せて

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        今年は梅雨が長く雨の災害も多くあり、又、コロナ禍も一時収束しておりましたが、最近は感染の拡大もみられ不安な日々を送っています。

         

        皆さまはいかがお過ごしでしょうか?

         

        今月の会長先生のご法話は「むだなものはない」です。

         

        拝読させて頂き、私は大好きな如来寿量品第十六の一句、

         〜諸(もろもろ)の言説(ごんぜつ)する所は皆(みな)(じつ)にして虚(むな)しからず〜 

        を思い出しました。

        仏さまのお説きになることはすべて真実であって嘘いつわりなく、ひとつとしてムダなこともないのです。

        慈父であられる仏さまはいついかなる時も私達のすぐそばにいて下さり、私達の幸せのみを願って、救いの手をさしのべて下さるあたたかいお姿が思い出され、胸が熱くなります。

         

         

        また、会長先生は「仏に帰る」ための精進の中で

        「仏になるというのは、『悟りを得る』ことを指すのかもしれませんが、その意味でいえば、私たちはすでに悟っていると教えられてあります。ですから、仏になるために修行を、工夫をするというよりも、悟ったあとの精進をしている、それがいまの私たちの日常生活といえるかもしれません」と。

        では、なぜ精進をつづけるのかといえば、私たちがときどき自分の本質を忘れてしまうからです。悟っている「ほんとうの自分」に帰るための精進、それが日常の信仰生活なのです。

         

         

        次の章の「自分のことのように」の中で、

        ところで「如来寿量品」には、「如来の演ぶる所の経典は 皆衆生を度脱せんが為なり」(仏の教えはすべて、人びとを迷いの世界から救うためのものです)とあります。

        度脱とか迷いの世界から救うというと難しい印象ですが、要するに、いつでも心から、幸せだ、うれしい、楽しい、といえる人間になるということです。そして私たちは、自分の本質を忘れなければ、その幸せを実感できるのです。

        と教えて頂きます。

         

         

        私達は今、コロナ禍にあって、今までのような自由が奪われ、厳しい制約をうけて日常生活を送ることとなり、それまで普通に当たり前に出来ていたことが、ことごとく困難となり、我慢を強いられています。

        私は、人さまと触れること、コミュニケーションをとることがとても苦手な性格で、初めの頃は少し“ホッ”とする気持ちもあって、人さまと会えないことも不自由を感じずに、日々何気なく過ごしていました。

        しかし、毎日テレビから流れてくるコロナ感染の痛ましいニュースを見聞きしているうちに気持ちがざわついてきて

        「一人住まいのAさんは大丈夫だろうか?」

        Bさんはどう過ごされているだろうか?」

        とたまらなく愛しさを感じ、すぐにお電話をかけさせて頂き、日頃の不安な思いをじっくりと聞かせて頂くことができました。

         

        マスクがなかなか買えず困っている状況を聞き、手紙を添えて手作りマスクを届けると「毎日の不安な気持ちはいっぱいあるが、皆さんに親切にしてもらって涙が出るほど嬉しい」ととても喜んで下さいました。

        私は時に、自分のことにとらわれて不平不満の心で過ごしていましたが、皆さまのお陰さまでほんの少しでも人さまを慈しみ優しい気持ちが持てたことに感謝でいっぱいになりました。

         

         

        会長先生は、

        仏はさまざまなかたちで、あるいはものごとをとおして、私たちが迷いの世界から離れるヒントを与えてくれています。万憶の方便と経文にあるように、聖人や賢人の教えだけでなく、いいことも悪いことも含めたこの世のあらゆるできごとが、「ほんとうの自分」に帰って幸せを味わうためのヒント、縁になるということです。

        と教えて下さっています。

         

         

         先日、私は友人に連絡をとりたいと思い、メールやラインを送り、また手紙を書いてポストに入れ、電話をかけて、(あらゆる手を尽くしても)一向に返事がなく、そのうち気持ちがいら立ってきて、「こんなにしているのに何故連絡がないのだろう?」「嫌われているのだろうか?」とふと寂しい思いもわいてきて一人葛藤していました。

        しかし、友人の姿を通して我が身を振り返った時、私はある方に大変お世話になりながら長い間連絡もせずに不義理をしていたことに思い至りました。

        すると、その方と偶然にお出会いする機会があり、長い間のご無沙汰をお詫びし、お礼を申し上げることができ、即友人から丁寧な連絡が入りました。

         

        この体験を通して、「連絡が無い事が悪いことはダメなこと」と否定的に思わなくなり、囚われが無くなりました。友人のお陰さまで大事なことに気づかせてもらい、心が通い合い、すっきりと清々しい気持ちにならせて頂きました。

         

        最後に、私達が出会う全ての縁を

        自分のこととして受けとめ、学べば、この世にむだなものごとは何一つなく、その一つ一つが「ほんとうの自分」すなわち仏に帰る縁となるのです。

        と教えて頂きます。

         

        即是道場の教えを頂き、日常生活の身を置く場で、目の前の人に喜んでいただけますよう、思いやりの実践をさせて頂きます。             合掌

                          (近江八幡支部  K

         

         

        (太字は会長先生ご法話 佼成8月号より引用)

        当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


        7月 会長先生のご法話に寄せて

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           早いもので7月になりました。
          今年は季節の移り変わりの感じ方が、例年と少し違うように思います。
          新型コロナウイルスの世界的な感染拡大が、世界はひとつ、つながっていることを再確認する出来事になりました。

          7月の会長先生のご法話は「いま、自分にできることを」です。


          ○菩薩として何を願い、誓うか
           仏心とは「一切衆生を救うの心」と教えられていますから、私たちは、いま世界中に広がっている病気によって苦しむ人たちに心を寄せ、事態が早く終息に向かうことを願うばかりです。一人ひとりが、自分にできることは何かを考え、それを日々、粛々と実践していきたいと思います。

           (佼成7月号より引用)

           今回、私たちは目に見えない大きな不安と、生活の変化に直面しました。そのことがストレスになって、苦しみ悩んでいる方もいらっしゃると思います。
          相手の立場に立って、話しを聞かせていただき、相手に寄り添い、温かいふれあいをさせていただきたいと思います。


           それで思い起こされるのが、大地から忽然と涌き出て、この娑婆世界で仏の教えを弘め、実践をとおして「すべての人を救おう」と誓う無数の菩薩たちです。
           法華経の「従地涌出品」に登場するそれらの「地涌の菩薩」の代表が、上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩ですが、これは、仏道を歩むものが最初に「仏さまのようになりたい」と願ったとき、つまり菩提心を発したときに誓う「四弘誓願」を象徴的に示しているものと受けとめられます。

           (佼成7月号より引用)

           教学研修ではじめて「従地涌出品」を学ばせていただいたとき、講師さんが「地涌の菩薩は私たちのことですよ」と教えてくださいました。私は「私は違う...私にそんなパワーはない...」と思ったことを覚えています。
          でも様々な体験を通して、その体験が私を育ててくださり、他を思いやり、他に寄り添う心の糧となっていると思わせていただきました。


          ○いまが「習学」のチャンス
           「四弘誓願」を参考にして、自分にいま何ができるかを考える人は、いうまでもなく仏の教えを信じ、実践する志のある人ですが、それは仏と同じ心になっているということです。「そういわれても」と、気後れする人があるかもしれませんが、教えにふれて「仏さまのようになりたい」という気持ちを起こしたとき、私たちはすでに、仏の心と一つになっているのです。
           (佼成7月号より引用)

           今年の2月に母が大腿骨頸部骨折をして約2か月間入院しました。
          そして6月には父が脳梗塞で約3週間入院しました。
          おかげさまで二人とも退院させていただきましたが、様々な機能が低下しました。私は毎日の生活の中で、変化する両親の姿を受け入れられず、不安で辛くなりました。
          そして両親の介護を一人で担うことにプレッシャーとストレスも感じていました。
          地区主任さんが「いつでも何でも言ってね、手伝うからね」と言ってくださっても、以前と違う両親の姿を見られるのがイヤで、お願い出来ませんでした。
          でもあるとき、両親は私以上に身体と心の変化に不安を感じているだろう、両親に不安を与えないように出来る限り丁寧に接しようと思いました。
          丁寧に接していると、今の両親のありのままの姿を受け入れることが出来て、全面的に私に頼ってくる両親を「愛おしい」と感じるようになりました。そして、地区主任さんに素直に「助けてください...」とお願いさせていただけるようになりました。
          両親の介護を通して、執着がなくなると、相手のありのままの姿を見ることが出来て、受け入れることが出来ることに気づかせていただきました。


           私にも、本会の先輩や他宗教の方のなかに、「またお目にかかりたい」と思わせられる方がいますが、その方々に共通するのは、神仏などを尊び敬う心が強く、一方では苦しみや悲しみの底に沈む人を常に思いやる、情愛あふれるという点です。私たちも、そのような菩提心を発して、日々に精進をしてまいりましょう。
           (佼成7月号より引用)

           7月は「盂蘭盆会」の月です。
          いのちをつなげてくださったご先祖さまへの感謝をより深めさせていただきます。
          そして「従涌の菩薩」の自覚にたって出会いを大切に、目の前の一つ一つを丁寧に実践させていただきます。合掌
          大津支部 T.Y.

           

          (会長先生ご法話 佼成7月号より引用)

          当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


          6月 会長先生のご法話に寄せて

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            コロナウィルス感染拡大防止の為、外出できない日々を送っている間に桜は散り、木々は青葉の美しい季節へと変わっています。
            早く皆さんにお出会いに行けるようにと願う毎日です。

            今月の会長先生のご法話は「怠け心に負けない」です。

            ○精進が大事と知りながら
             昔の流行歌に「わかっちゃいるけど やめられねぇ」という一節がありました。おもしろおかしい表現ながら、私たちの心のはたらきをみごとにあらわしています。現に私たちは、ともすると、なすべきことを怠ったり、しないと決めたことを、ついしてしまったりします。
            お互いさま、「わかっちゃいるけど・・・」と、反省することが少なくないのではないでしょうか。
            〜 中略 〜
            「嬾惰の意、及び懈怠の想いを除き 諸の憂悩を離れて 慈心をもって法を説け」とは、法華経の「安楽行品」の一節です。
            だれもが抱く、サボりたいとか飽きたという気持ちを釈尊もよく理解されていたのでしょう、「心の内から湧いてくるさまざまな誘惑や迷いをふり払い、安らかな心で、みずから楽って、喜びのうちに精進できるように」と、釈尊は私たちにこの品を説いてくださったのだと思います。
                   (佼成6月号より引用)

             昨年、支部長の大役を頂き、今年は布教中心に「たくさんの方とつながろう」と取り組もうとしていた矢先、コロナウィルスの影響で教会の活動が自粛され、その後、教会完全閉鎖というかつてない状況になりました。
            早くも3ヶ月余り経とうとしています。

             

             それまでは、お役で毎日のように教会へ通っており、朝は主人や子どもたちより早く出かけることもしばしばありました。その為には前日より準備をし、時間に追われるように一日を過ごしていたのが、学校も休校となり、少しぐらい寝坊してもいいか、朝夕のご供養も、後からゆっくり・・と時間にルーズになったゆるんだ生活になってきておりました。
            今回この会長先生ご法話の原稿の担当を頂き、びっくりしました。
            今の私を見て会長先生が喝を入れてくださった!と。

             

            世の中では社会活動自粛の影響で生活に不安をかかえている方もおられる中、我が家は主人のお陰さまで、心配もなく生活させて頂いています。有難い教えを頂き、みずから楽って喜びで人さまにお伝えするという使命を果たせていないことを反省させて頂きました。

            ○待っている人がいる
             
            〜 中略 〜
             そう考えると、自分がなぜ信仰をしているのか、なんのために日々精進するのという、目標や目的をつかむことが、喜びのうちに精進する基本となるのでしょう。
             しかし、それがわかっていてもなお、内心の誘惑に負けてしまうのが人間です。ただ迷うのも楽をしたいと思うのも自然なことで、ときには心の逃げ場も必要だと思います。そのとき、目的や目標を忘れなければいいのです。
            〜 中略 〜
            それはつまり、「自分を待っていてくれる人がいる」と思うとき、人は自己中心の思いから離れ、その人の役に立ちたいという願いが湧いてきて、精進の一つ一つが喜びや楽しみに変わるということでしょう。
             日本だけでなく、世界がさまざまな困難に見舞われています。
            慈心をもって法を説け」とありましたが、みなさんのまわりには、あなたを待っている人はいませんか。   (佼成6月号より引用)
             先日の5月23日に近江八幡駅前にて献血が行われました。滋賀教会では青年部が青年の日の取り組みとして声かけをして、当日は、青年さんをはじめ、一般の方もたくさん来てくださいました。
            いつもは比重が軽く献血できない私は、今回も無理かなと思いながらも青年部長さんの声かけに後押しされ、参加してみると25年ぶりに献血することができました。
             人のためにできることがあるというのは本当にうれしくなります。健康を保つことも布施と教えて頂いていますので、次回もさせて頂けるよう体調管理の努力もさせて頂こうと思いました。
            献血会場では、何人かの方と久しぶりにお会いして直接話しをすることができ、それも又元気を頂きました。元々私は、自分から積極的に声をかけていくのが苦手な性格です。その私がお役のお陰さまでたくさんの方たちとご縁を結ばせて頂き、人と触れ合いすることでたくさんの感動を頂き、生きがいのある人生を送らせて頂いております。
            信者さんのどうしようもない辛い思いや苦しみに接し、何もできないと悩んでしまうこともあります。しかしその中でも何とかその方の為にできることはないかと念じさせて頂くことを有難く感じています。
             今回の布教に出られない日々は、自分の内心の誘惑に負けて素のままが出ておりましたが、信仰の原点、なぜ自分は信仰をしているのか、自灯明、法灯明の教えにあるように法の如く、自らを律し自らが実践させて頂くことが大切と改めて考えさせて頂ける時間でした。
            まだしばらく自粛の生活は続きますが、毎日の教会長さんのお言葉をしっかりと目標に持ち、これからも精進させて頂きます。
              合掌       湖南支部 支部長

             


            (会長先生ご法話 佼成6月号より引用)

            当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます


            5月「会長先生ご法話」に寄せて

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              5月の会長先生のご法話は「悠々として、心安らかに」です。


              ○妙好人・石見の善太郎
               妙好人というのは、白蓮華にたとえられるほど清らかな人柄の、信心深い念仏者のことです。

               

              〜中略〜

               

               ある日、その善太郎を信仰仲間が訪ねてきました。本山参りの際に一泊させてくれた同朋で、善太郎は笑顔で迎えますが、その人はいきなり善太郎をどろぼう呼ばわりして、難しく罵ります。着物を盗んで持ち去ったというのです。
               すると善太郎は、身に覚えがないにもかかわらず、「それは悪うございました」と丁重に詫びて
              着物の代金を渡したうえ、「何もありませんが、せめて草餅をおうちの人に」と、仏壇に供えた草餅を包んで土産にもたせました。信仰仲間が家に帰って、みんなで草餅をたべようとしたときです。その家で働く娘が、なぜかうつむいたまま、手にもとりません。「どうして食べないのか」。主人がそう尋ねると、娘は「善太郎さんが盗ったと、話しましたが、あの着物を盗んだのは私です」と、罪を打ち明けたのです。

               さて、もし皆さんが善太郎さんと同じ立場におかれたら、この事態をどのように受けとめ、対処するでしょうか
              (佼成5月号より引用)

               

               善太郎さんが余りにも心清らかな方なので、正直なところどのように解釈したらよいのか悩みました。それでこの草餅説法に登場する三人について、もしも自分がその立場であったならと考えてみました。
               もし私が着物を盗まれた信仰仲間だったら・・・
               いくら何でもいきなり仲間を泥棒呼ばわりできるだろうか?しかも着物代を受け取ったうえに、
              草餅まで貰って帰るなんて私には出来ないと思いました。謝罪を受け入れ、着物代を貰ったのならそれ以上の物をもらう必要があるのかと、考えてしまいます。
               では、もし私が善太郎さんだったら・・・。
               勿論、いきなり泥棒扱いされたのですから相手を許すことは出来ないと思います。謝罪したうえに
              着物代、さらには草餅まで持たせるなんて、とても私には出来ない事です。
               では、その家で働く娘だったら・・・。
               恥ずかしながら、とっさに誤魔化したり、つくろったり、しらを切ったり?する事はありますが、
              嘘をついて人を陥れるような事は出来ないです。でも、こうして私が○○だったらと考えたら三人の中で一番私に近いかもしれないです。
               以前、主人のメガネを使ってどこに置いたのか分からなくなってしまった事がありました。
              あちらこちら心当たりを探しても見つからないまま、主人の帰宅時間が近づいてきました。日頃から使った物は元の所に戻しておくようにとか、自分のメガネを使うように言われていましたので「また小言を言われる・・・。」そこでひらめいたのが、同じメガネを買いに行く事でした。幸い、100円均一で買ったもので大量生産、当然同じものが売っているだろうと。しかし何軒回っても同じ物は売っていませんでした。やっぱり、仏さまはご照覧。素直に謝りなさいと言って頂いているのだと思い、疲れて家に帰りました。すると、何度も試したはずの洗面所に落ちているのを見つけたのです。私が素直に主人に謝ろうと思えるまで仏様がマジックを使われたのだと思います。このことがあってから何か失敗をしたり、自分が間違ったと思った時には相手の方に出来るだけお詫びするようにさせて頂いています。

               

              ○楽しく仏道を歩む
               善太郎さんの対応には感心するばかりですが、では、どうして何も釈明しないまま、善太郎さんは
              事態を受け入れることができたのでしょう。
               私は、「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」という、善太郎さんの絶対的な「信」によるもの
              ではないかと思います。「やましいことは何もない。仏さまはすべてご照覧なのだ」。そうした、悠々として安らかな気持ちがあればこそ、あのように受けとめることができたのでしょう。

              「いう人もいわれる我ももろともに 同じ蓮の台なるらん」という道歌がありますが、仏の前ではすべての人が平等ですから、その場で身の正しさを申し立て、相手をやりこめるのはつまらないこと、と考えたのかもしれません。
               法華経の「勧持品」に「我身命を愛せず 但無上道を惜む」という言葉があります。信仰者の強い
              意志を示す一節ですが、この言葉は、命さえ惜しくないという意味だけではないと思います。いま、この地球に生まれて生きている奇跡に気がつけば、「自分さえよければいい」と自己に執着している

              場合ではない、生かし生かされあう縁に感謝することが大事なのだ、という意味にも受けとれます。

              「但無上道を惜む」は、そのような感謝に目ざめたら、一人でも多くの人と感謝の気持ちを共有しよう、ということではないでしょうか。法華経の教えによって感謝に目ざめた私たちであれば、その教えを人に伝え、生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、一歩を踏み出すことです。

              〜中略〜

               先の善太郎さんの話は、「草餅説法」といいます。娘さんの心を解かした妙好人のあたたかさに、悠々として、心安らかに生きる信仰者の神髄を見る思いがします。

              (佼成5月号より引用)


               信仰者仲間が善太郎さんをいきなり泥棒扱いしたのは、その娘が陰ひなたなく良く働きとても信用していたからかもしれませんし、善太郎さんが以前毛虫の悪太郎と呼ばれていたからかもしれません。

               私も、以前こうだったからと一度フィルターをかけて見てしまうとありのままを見られないことが々あります。それに草餅を貰って帰ったのも素直に謝罪した善太郎さんとの間にこれからも善き信仰仲間として溝を作りたくなかったからかもしれません。
              その娘もちょっと借りるだけのつもりで、とか又は已むに已まれぬ事情があったのかもしれません
              嘘をついたことでずっと胸を痛めていたと思います。そう考えると悪人は一人もいないということです。
              “いくら正しいからと言って相手をやり込めるのはつまらないこと”本当にその通りだと思います。
              やり込めただけでは相手に何も伝わりません。善太郎さんの行いは周りの人たちの仏性を引き出したんだなと思います。
               頭ではわかっていても、実生活の中ではまだまだ・・・。夫婦喧嘩は買ったらあかん、勝ったらあか
              ん。ある本のタイトルです。なるほどな〜と、私もそうありたいと思っていましたが、つい3日ほど前の事です。深夜に仕事から帰ってきた主人が玄関を開けるなり、怒鳴り散らしています。お昼に、もう一度買い物に出るつもりで車をガレージの真ん中に停めたままだった事を忘れていたのです。100%私が悪いと素直に直ぐに謝りましたが、ただでさえ長距離通勤で疲れているのに加えて私の車を移動させないと自分の車を停められなかった主人の怒りはおさまりません。次の日も責められてしまい本当に申し訳なかったと思っていた気持ちがだんだんと「悪いと思って何回もあやまったやん」とか「そんなにしつこくおこらなくても」とか相手を責める気持ちが起こってきました。後で支部長さんには「お試しやなぁ」と言って頂きましたがこの善太郎さんの「草餅説法」にふれていなければ言い返していたかもしれません。仏さまはご照覧、仏さまはに対する絶対的な「信」は善いことを淡々と続けていくなかに自然と湧き出るものなんだろうと感じさせて頂きました。

              揺るがない自信、そういうものを持てる私にならせて頂きたいです。

              合掌

               

              東近江支部 支部教務員

               

              (会長先生ご法話 佼成5月号より引用)

              当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。

               

               


              4月 「会長先生ご法話」に寄せて

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                今月の会長先生のご法話は「偏った見方を越える」です。

                 

                「自分は正しい」という偏り

                 

                自分の感情や都合を大事にするそういう見方や受けとり方を、私たちは多かれ少なかれしていると思います。これは、いうまでもなく自己中心の狭い見方です。この見方が高ずると「私の考えが正しい」「自分の判断は間違っていない」といったとらわれや偏見が強くなって、ものごとを正しく見る目がさらに曇ります。

                そこで、そういうものの見方を省みるとともに、自己中心に偏りがちな視野を大きく広げる動機づけともなる、法華経の一節をご紹介しましょう。

                 

                「等正覚を成じて広く衆生を度すること、皆提婆達多が善知識に因るが故なり」(私が仏の悟りを得て人びとを救えるのは、すべて提婆達多という善き友のおかげです)

                「提婆達多品」の有名な言葉です。自分を敵視して殺そうとまでした提婆達多のことを、釈尊が感謝の思いをこめてサンガに伝える重要なくだりですが、これは私たちが、偏った見方から大きな見方へと心を切り替える、スイッチのような役割をもつ一節でもあると、私は受け止めています。

                 

                田舎で独り暮らしている義父のところへ、ときどき買い物にいったり家の用事などをするために、主人と帰らせてもらっています。

                少し認知症が見られるということです。

                まだまだ元気な義父なのでありがたいのですが、その反面自分の気に入らないことがあると、その思いをそのまま口に出してしまうことがよくあり、デイサービスの方や私たちもほとほと困ること多々あります。

                そのような義父を私は「自分勝手な困った人」という見方をしていましたので、段々と義父とかかわるのが苦痛になってきていました。私のその思いを聞いて頂き、義父とかかわる時に「何か言われたらどうしよう」と避けようとしている心が、余計に自分を苦しめていることに気がつかせて頂きました。

                「何を言われてもいいや!受け入れていこう」思えるようになってくると、少しずつですが義父の言葉があまり気にならなくなっていきました。まだ苦手と思うところはありますが義父を通して大きな心になるチャンスをいただいているのだと思わせて頂きます。

                 

                「仏性をひたすらに信じる」

                 

                釈尊は、提婆達多からの非難や攻撃という厳しい現実に直面するなかでもまた、心を天にのぼらせて、広く大きな心で提婆達多と向きあったのだと思います。

                すると、その瞬間に「自分を害する人」と見る自己中心の心が、スッと仏性を信ずる大きな心へと切り替わり、すべてに合掌・礼拝せずにはいられなかった―そういう心の切り替えをうながしてくれた提婆達多は、釈尊にとって「善知識」以外の何ものでもなかったといえるでしょう。「みんな仏性」という見方に立てば、偏った見方で人を傷つけたり、争ったりすることはありません。人を批判する前に、「そうか、あの人も仏性なのだ」と思い返すきっかけがあれば、偏った見方をして悩むこともないのです。

                 

                 ただ誤解されやすいのですが、仏性を信じるというのは、相手のいいところを見ることではありません。相手を、まるごと仏性として拝むことです。すべての仏性をひたすら信じるなかで、私たちは矛盾や葛藤とも向きあい、人として成長していくのだと思います。

                 

                 義父はデイサービスに通い始めて5年ほどになりますが、職員の方から義父の言動に対して「困っているので、どうにかしてほしい」とよく電話をいただきます。私はあきれたり怒ったり、困っていました。

                たまに義父が自分の本心を話してくれるときがあり、家のために自分の思うように生きてこられなかったことに不満を抱きながら、人生を歩んできたことを知りました。そして私たち子どもに対しての思いの深さもわからせていただきました。

                義父のその思いに有難さを感じつつも、目の前にいる義父を見ると相変わらず好き勝手な言動をして、周りの人たちを困らせています。その姿を見ると話してくれたこととの矛盾に悩みました。

                しかしどの姿も義父なんだと教えていただき、すべてを受け入れていこうと思いました。

                今は、受入れようとする心と、避けようとする心のいったりきたりですが、デイサービスからの「どうにかしてほしい」との電話にも、まずお世話になっていることに頭を下げ、お礼を申し上げることができ、謙虚にならせてもらえる、父の言動に右往左往しない自分つくりをさせていただける、父がいてくださるおかげで私は成長させて頂ける修行の機会を与えて頂いています。

                 

                今年の元旦参りで、開祖さまから頂いたお言葉は

                「まわりの人をあたたかい目でみていく、あたたかい言葉をかけていく、あたたかく手をとっていく…こうしてまわりの人たちを大事にしていくことが、いまを大切に生きることほかならないのです」

                と頂きました。

                父の仏性を信じて、あたたかい人になれるように精進させて頂きたいと思います。

                  

                               合掌

                 

                                 滋賀教会 甲賀支部 Ⅿ・K



                (会長先生ご法話 佼成4月号より引用)

                当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます

                 https://www.kosei-kai.or.jp/2020/?cat_slug=kaicho-howa


                3月「会長先生ご法話」に寄せて

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                   今月の会長先生のご法話は「満足できる幸せ」です。


                  〇「欲をはなれると」
                   欲は自然のものですから、生きるうえでは必要なのです。ただ、必要以上に欲が深い人は、「あれがほしい」「これも自分の思うとおりにしたい」と私利私欲にとらわれるあまり、人への思いやりが二の次になりがちです。心が、「我」=「自分のこと」でいっぱいの状態だからです。

                  ところが、何ごとにつけ、ほどほどのところで満足できる人は、人のことを考えるゆとりもありますから、たとえば好物が手に入っても「一人で食べてはもったいない。人にも分けてあげよう」という気持ちが自然に湧いてきます。

                  〜中略〜

                  そうした人間らしい思慮や、他を思いやる気持ちが行動となってあらわれることを、脇祖さまは、「欲をはなれると徳がくる」といったのだと思います。それは、人間がもともともっている徳分が、自然に滲み出るということです。

                  (佼成3月号より引用)

                   

                  私は3月の会長法話を拝読させて頂き、私がこの世に生を受け、幼少、青年、壮年、そして今あることに感謝し自分自身を振り返ることが出来ました。その時代、時折々でそれぞれに目的は違っていたものの欲深い自分の「我」と、ほどほどのところで満足していた「欲をはなれた」自分であった事に気づかせて頂きました。

                   幼少の頃は兄弟の中でも末っ子であったこともあって大概のわがままが許されました。ところが、同世代のお家との格差(衣食住)、家族構成の違いなど、その当時、同じように思うには限界があることをまだ理解していなかった私は、自分の「我」を通す行動を起こして、両親に辛い思いをさせていました。
                  その当時の事を思い出し法話の中から、人への思いやりが二の次になり心が、自分のことでいっぱいになっていることに気づかせて頂いたり、人間らしい、思慮や他を思いやる心を育てて頂いたと、様々な思いを振り返り両親に感謝の思いでいっぱいです。

                   今何故か人の笑顔を見る事が好きになり、自分にとっての生きがいはここにあることに気づき、今も、人の笑顔を求め人の意見を尊重することを優先する自分がここにいます。

                   「善きに計らえ」と、事あるごとに父親が私に言っていた口癖でしたが、この意味を深く理解していなかった自分でしたが、これを聞くと何故か落ち着き、気持ちの切り替えができていたように思います。
                   
                  今年、教団八二周年を迎え、お役を通して自分を振り返ることができました。

                  〇「感謝こそ」
                   摩訶迦葉は「衣や食や寝床などに、いっさい文句をいわず、満足する者である」と伝えられています。

                  現代の私たちには、実践するのが難しいように思えますが、「何ごとに対しても、不足を口にしないで満足する」というのは、授かったものに感謝して、自分勝手な「よしあし」をいい立てないということです。それに、頭陀行をごく簡単に「小欲知足」と説明する文献もありますから、欲を少なくして足ることを知る生き方、与えられたものをできる限り素直に受け容れて、感謝のうちに暮らすことは、私たちが日ごろから心がける姿勢と重なるものです。

                  〜中略〜

                  生きていくなかで、授かったすべてに合掌する―そこに感謝と喜びがあり、ほんとうの満足と幸せがあるのです。

                  (佼成3月号より引用)

                   人間の大半は誰かに制御してもらわなければ、「我」を通し続けて行く生き物であるように思います。社会に出て「よしあし」を知り理解することで、その行き先々で触れるご縁に「感謝」させて頂く。「欲をはなれた」生き方を続けて行くと、これで良かったんだと「満足」する事が大切であり、今生かされていることに感謝と満足できている事をかみしめさせて頂きました。
                   感謝と受けとめられないときは「形」から入ることが大切と教えて頂き、全てに合掌するを実践させて頂き、「満足できる幸せ」を味わいたいと思います。

                  法華経の教えを日々学ばせて頂き修行精進させて頂きます。
                                                合掌
                  湖北支部 壮年支部部長NY
                  (会長先生ご法話 佼成3月号より引用)

                  当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


                  2月「会長先生ご法話」に寄せて

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                     今月の会長先生のご法話は「生きがいをみつけよう」です。

                     

                    ○「お前も、死ぬぞ」

                     二月は、涅槃会の月です。涅槃会は、釈尊ご入滅の日とされる二月十五日に、仏教徒がそのお徳をたたえ、仏の教えの学びを深める日ですが、(中略)多くの人にとって「死」は、恐ろしくて、避けてとおりたいものといえるでしょう。しかし、だからこそ釈尊は、「お前も、死ぬぞ」と、この世の実相を、身をもって語りかけてくださったと思うのです。

                    ただ釈尊は、もちろんご自身の死をとおして、そのことだけを教えているわけではないと思います。生まれては死に、死んでは生まれ、という「いのち」の大きな流れのなかで、私たちが人としてこの世に生まれ、生きる意味をも教えているといえないでしょうか。つまり、ただ死ぬためだけに生まれてきた人は、一人もいないということです。 

                    (佼成2月号より引用)

                     

                     「お前も、死ぬぞ」その活字だけをみたり、ストレートに言われると、とても強烈な印象で、恐いです。しかし、決して嘘でもありません。我々は必ず死にます。私は幼少の頃、腎臓病のひとつでネフローゼという当時難治性の病気で半年以上の入院をしていました。入院中、同年代の同部屋の子がある日居なくなり、後から聞かされましたが、亡くなられていました。私が退院してからも病院で知り合った子が亡くなっていた、と聞いたりもしました。まだ幼かった私は「死」についてよく分かっていませんでした。その後、学生・成人になってからも身内や知り合いの方が亡くなられるのを経験しましたが、「自分の死」については正直、深く考えませんでした。今年の正月、例年のごとく実家に家族が集まりましたが、最近では両親も80歳と高齢で、父は一昨年足を切断し、同時期に母も大腿骨を骨折して、なかなか自由の利かない生活となってきました。両親の今後の生活について私と私の兄夫婦で考えるようになりました。

                     実家からの帰りの道中で、私の長男が「元気なうちにみんなでどこかに行かないといけないね」と言いました。私はおじいちゃん(私の父)の事と思い、「あの状態では、なかなか厳しいだろう」と言ったら、「お父さんの事やで、お父さんが元気なうちに僕(長男)と弟(次男)でどこか旅行でも行きたいね、と弟(次男)と話しをしていたんやで」と言われ、“ドキッ”としました。もちろん私の身体の事を思っていてくれることは嬉しく思い、感謝の気持ちでしたが、自分もいつまでも元気ではない、息子たちがそんな事を考える自分は歳になっているのだ、と考えさせられました。そしてそれ以上に、人は必ず死ぬ、また人はいつ死ぬかは誰にもわからない、という事を改めて気付かされました。百歳時代と言われる時代に、生んで頂いた両親に、そして「いのち」を頂いた事に感謝し、「死」について気付かせてくれた息子たちに感謝します。

                     

                    ○生きる意味とは

                     身近な人や家族、あるいは自分が、病気をしたり、亡くなったりするのは、ほんとうにつらく、悲しいことです。ただ、そのつらさや悲しみやおそれを心底味わうと、真実を見る目が開かれます。それは、苦しみ、悲しみ、つらさそのものが、救いのいとぐちになるということです。

                    そして、ここでいう「救い」というのは、たとえ人生のどん底であえいでいるときでも、そこに生きる意味や生きがいを見出し、前向きな力に変えていくことです。

                    救いとか生きがいといっても、おおげさに考えることはありません。それを得るきっかけは、たとえば、夕飯の料理に最善を尽くすとか、あいさつを気持ちよくするなど、ささやかでも、あなたにしかできないことを喜びとして、それがまわりの人に喜ばれる、といったことです。それが、生きる意味や生きがいの核心ではないでしょうか。

                    (佼成2月号より引用)

                     

                     自分が幼い時に入院していた時や息子たちが大きな病気で入院した時は本当につらく、悲しかったです。しかしその事があったから、「いのち」の大切さに気付き、「生かされている」という事に気付いたことも事実です。つらい事、悲しい事はこれからも体験し続ける事です。その中で救い、生きがいを持って生きていく事が大切であると気付かせて頂きました。

                     今年の元旦に滋賀教会で作っている「開祖さまのおことば」を頂きました。いくつかある中で私が頂いたおことばは、「『人さまのこと、人さまのこと』と心をくばっていくと、自然に自分が幸せになっているのです。」というおことばでした。「人さまのこと」は自分ではしているつもりでした。私は壮年部のお役で、よく教会で資料などの作成をしています。これも人さまの為に、と思ってさせて頂いています。「心をくばって」と考えると、なかなか出来ていなかったと思います。例えば宿直の資料作りをとっても、当番表は作っても宿直に携わる方々への心くばりが出来ていただろうか。当番表を作ったら終わりでした。わかりやすい当番表だったか、宿直に入られた方がどうだったか、など後の行動が出来ていなかったと思います。心くばりが出来て、人さまのためになる、と感じました。

                    また心をくばるには、相手の方と触れてその方の思いを聞かせて頂かないといけないと、気付かせて頂きました。これからは家族や周りの方々に喜んで頂けるような、心をくばっていけるような行動を起こしていきたいと思いました。

                    そしてその行動を起こすことで幸せを感じとれる自分になりたいと思いました。

                                                   合掌

                                         滋賀教会 日野支部 N.S

                     

                    (会長先生ご法話 佼成2月号より引用)

                    当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。


                    新年のご挨拶

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                      皆さま、明けましておめでとうございます。

                       

                      昨年は滋賀教会発足55周年という節目の機会を、新しい方や久しぶりの方を含め多くの皆様と迎えることができました。

                      誠にありがとうございます。

                       

                      今年は会長先生から次のような信行方針を頂戴しました。

                       

                      天地自然は、一瞬もとどまることなく、創造、変化を繰り返しています。私たちもまた、天地の道理の如く、停滞することなく、何事に対しても、日々新たな気持ちで取り組んでいくことが大切であります。

                      今年、本会は創立八十二周年を迎えました。その今日に及ぶ歴ふ史の礎(いしずえ)は、開祖さま、脇祖さまをはじめ、先輩の幹部の皆様、信者さんの寝食を惜しまぬご尽力によって築かれてきたものです。

                      私たちは今後、教団創立百年に向けて、一人ひとりが、「即是道場(そくぜどうじょう)」(この処は即ち是れ道場なり)の精神をもって、そのご恩に報いてまいりたいと思います。

                       

                      年頭法話『尋常(じんじょう)(つね日ごろをたずねる)』の中で、会長先生はこの信行方針に触れ、「即是道場」について次のように教えてくださっております。

                       

                      「道場」というと、私たちはまず大聖堂や教会、地域道場などを思い浮かべます。しかし、「即是道場」とは、自分が居る所、住んでいる所、身を置く所、すべてが道場であるということです。

                      日々の生活の中では、本当にいろいろなことが起こります。(中略)

                      相性の悪い人に出会ったり、冷たい言葉、厳しい言葉を投げかけられたり、無視されたりして、悲しく、つらい思いをすることもあるでしょう。

                      しかし人間は、不自由であったり、不都合であったりするからこそ、それを何とか乗りこえていこうという気持ちを起こします。何一つ試練がなかったとしたら、おそらく人間は向上できないと思います。

                      ですから、困難に出遭った時には、「人間として成長するきっかけを頂いた」「ここが踏ん張りどころだ」という受け取り方をして、目の前のことに最善を尽くしていく―それが「即是道場」の精神であります。

                      とりわけ在家仏教徒にとっては、日常生活のあらゆることが修行です。何か特別なことをするのではなく、人と会って話をすること、仕事をすること、学校生活を送ること、料理や掃除をすること……。その一つひとつのことに、手を抜かず、丁寧に、心を込めて取り組んでいくことで、良い習慣が身につき、自ずと身心が調うのです。

                       

                      この「即是道場」の精神を大切に、この一年を真に豊かにしていくための根本姿勢を示してくださったのが、佼成1月号の会長法話『ほんとうの自分に帰る』であると思います。

                       

                       

                       

                      『ほんとうの自分に帰る』

                       

                      ○一年をどうすごすか

                      この一年を真に豊かなものにするのは、ほかでもない、私たち自身です。日々に出会う人やものごとは、すべて、自分が因となり、縁となって生じているものです。さらにいえば、遠い世界のできごとさえも、自分と無縁のことは一つもないと受けとめれば、どのような一年にするかは、すべて自分にかかっているといえるのです。

                      それはまた、一年をかけて自分をどのように成長、進化させていくかということでもあるでしょう。

                       

                      この一年、一カ月、今日一日を真に豊かなものにするのは私自身と教えていただいたのですが、私はこのことを深める年末をすごしました。

                      私は滋賀に赴任してはじめてインフルエンザに感染してしまい、年末にアパートで数日寝込んでしまいました。

                      24日の朝に咳が出はじめ、午後には体全体が重くなり微熱も出てきたのです。25日の夕方には東京に帰る予定だったので早めに病院に行き、念のためインフルエンザの検査も受けましたが、陰性反応でした。薬をいただき、ホッとしながらすぐに横になりました。

                      しかし、次の日には熱が38度台に上がってきたため、壮年部長さんにお願いをして病院に連れて行ってもらいました。再検査をするとインフルエンザA型と診断されました。

                      自分の中で立てていた予定は崩れてしまい、熱でボーっとする頭で「何で?何が?どうして?」「自分は何をしているのだろう?」とぐるぐると考えていました。東京の家族の所に帰れなくなり残念な思いと、家庭修養日に入るこの時期で良かったという思いが交差しました。

                       

                      時間が経ち見方を変えると、年末の忙しい時にインフルエンザを通してゆっくりと体を休め、自分を振り返る時間をいただいたのだと思えてきました。ご法話の中にあるように、一年をかけて自分をどのように成長、進化させていくかを考える時間をいただいたのだと思うと、なんて贅沢な時間なのかと思いました。マイナスに思うようなことが自分を豊かにするための機会と思えることが、年頭法話にあった「即是道場」の精神であると思いました。

                      それでは、この一年を真に豊かに、成長、進化させていくかを考えるうえで、釈尊の実子、羅睺羅(らごら)のお姿から何を大切にしていけばいいのでしょうか。

                       

                       

                      ○素直に、謙虚に

                       「密行第一」が、羅睺羅に対する尊称です。しかし、そう称えられたのは、舎利弗をはじめとする先輩たちの指導や助言を素直に聞き、謙虚になって、人が見ていないときでもひたすら教えを学び実践しつづけたからだと、私は思います。釈尊の長男として生まれ、世俗にあったときには、父である釈尊に「王宮の財産を私にください」と語った羅睺羅が、出家して法を継ぐことが人生の大事だとわかったときから、身を慎み、つねに「素直であろう」「謙虚であろう」と心して、ただただ静かに精進を重ねる姿勢が、「密行」、つまり羅睺羅の努力だったと思うのです。

                       そこには、財を貪(むさぼ)る心も、自分の境遇を恨(うら)む思いも、釈尊の肉親であることを驕(おご)る気持ちもありません。「密行」を重ねるなかで、羅睺羅はすべての人が生まれながらに授かっている仏性の有り難さにめざめ、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)などの煩悩を離れた、「ほんとうの自分」に帰ったということです。

                       

                       年末にインフルエンザで休んでいる中で、佼成ご法話に照らして「仏法僧の三宝に対して、自分は素直であっただろうか。謙虚であっただろうか」と自問自答しました。すると見えてきたのは、私自身の心のあり様でした。

                      形は一人ひとりの心に寄り添っているようで、自分の思い通りにしたい心があることが浮かんできたのです。知らず知らずのうちに、心に溜まっていた貪瞋痴のホコリに気づくことができたのです。たとえれば、整理棚の表面はいつもきれいにふいているが、大掃除の時に、棚をずらしてみたら陰にはホコリがたまっていたようなものです。

                      この年末にインフルエンザを通して、自分の心の大掃除をさせていただいたのだと思います。とても清々しい気持ちになりました。

                       

                      心機一転、私は新年を迎えるにあたって、佼成ご法話をもとに次の言葉を考えました。この一年、朝夕のご供養の後に次の言葉を唱和して、自分の居る場所で、一つひとつを丁寧に、目の前の人に喜んでもらえるように真心込めて、一所懸命に精進していきたいと思います。

                       

                      ○宇宙の大生命である久遠の本仏に生かされていることに素直に感謝し、謙虚に生きよう。

                       

                      ○不滅の真理を説かれた仏さまの教えを謙虚に学び、素直に実践しよう。

                       

                      ○同じ信仰の仲間であるサンガを素直に信じ、謙虚に自分を磨こう。

                       

                      ○自分と相手の仏性を素直に拝み、謙虚に仏性のはたらきを発揮しよう。

                       

                      また、人材育成(人を植える)ということに全力を注ぎ、創造的な歩みができるように工夫を凝らし、「一人が一人を導く」ことに取り組んでいくことを通して、身近なところから菩薩の働きができるチャレンジャーになりたいと思います。

                      さらに、滋賀教会の皆さまと共に、救いを求めるすべての人にとって、いつでも心安らぐ「正定聚」(みんなが「仏さまのようになりたい」と決意した仲間)となるように、心を合わせ精進していきたいと思います。

                       

                      今年一年どうぞよろしくお願い申し上げます。

                       

                      滋賀教会長         合掌

                       

                      当月の会長先生のご法話はこちらからご覧いただけます。



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